中本富士雄
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岩国商業高では柳井高・遠井吾郎とともに、山口を代表する選手として知られていた[2]。1957年夏にはエースとして、初の西中国大会進出に導いている[3]。
高校卒業後、社会人野球の東洋紡岩国を経て、1957年暮れに広島カープへ入団。元々は南海ホークスのテストに合格していたが、地元の岩国市へ帰る汽車の中で付き添いの高校時代の監督から広島という球団の存在を知り、広島駅で途中下車して広島市民球場でテストを受け合格し、実家に近いという理由で広島入りした[4]。
入団1年目の1958年から長谷川良平、備前喜夫に次ぐ先発3番手として期待され[5]、ルーキーイヤーは1度の完封勝利(5月22日の阪神タイガース戦〈甲子園球場〉[1])を含む7勝を挙げている。
しかし、翌1959年以降は肩痛が悪化し、登板数が激減[5]。1962年になって、ようやく肩痛の原因は血栓による血行障害が理由だと判明[5]。手術を受けるが、当時の医療制度では以前の状態は戻らず、同年限りで現役を引退した[4][5]。