中村元勝 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期生誕 天文13年(1544年)[1][2]死没 慶長15年11月13日(1610年12月27日)[1][2]改名 忠禅[3]、元勝 凡例中村 元勝時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期生誕 天文13年(1544年)[1][2]死没 慶長15年11月13日(1610年12月27日)[1][2]改名 忠禅[3]、元勝別名 又三[3][4]戒名 籌巌良勝居士[2]墓所 法持寺[1][2]官位 対馬守[5]主君 今川氏真、織田信雄、豊臣秀次、秀吉、徳川家康、松平忠吉、徳川義直藩 尾張藩 藩士父母 父:中村元利[3]妻 沢井元政の娘[6]子 勘左衛門、甚兵衛、津田庄右衛門の妻、横井時孝の妻、山本兵庫の妻、三男、元悦、毛利吉之丞の妻、五男、行勝[7]養子:妻木平四郎の妻[注釈 1]、酒井久左衛門の妻、丹羽次郎左衛門の妻[注釈 2][8]テンプレートを表示 中村 元勝(なかむら もとかつ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。 尾張国愛知郡広江の人。父の元利は天文7年(1538年)まで那古野城主を務めた今川氏豊の家臣だったが戦死したため、幼少の元勝は母に連れられて郷里の東光寺で仏門に入り忠禅と号した。成人してから射術に傾倒したため、住僧に咎められたのを憤り、本尊の薬師如来像を射抜いて出奔、還俗した。最初は駿河国の今川氏真に仕える。仕官間もない頃まだ蓄髪が十分でなかったため、赤い布を頭に巻いて大いに武功を挙げたため「赤手拭」の異名をとったといわれ、その戦功で知行200貫を与えられた[3][4]。永禄11年(1568年)武田信玄の侵攻により今川氏真が遠江掛川城に逃れるとこれに従い、翌年の徳川家康との戦いでは水野忠重の部隊と戦いよく守ったが、自らも鉄砲に当たって負傷した。開城後は今川氏を辞して郷里に帰った[3][9]。 その後は織田信雄に仕官を求められ、やがて1,500貫文を領した。信雄の改易後は豊臣秀次に2,000石の弓頭として仕え、その死後も安堵を受けて豊臣秀吉の直臣となった。慶長5年(1600年)会津征伐とそれに続く関ヶ原の戦いでは徳川家康に属し、福島正則らとともに本隊に先んじて尾張へ下って案内役を務めた。戦後は尾張の国主となった松平忠吉の家臣となり、3,000石。慶長12年(1607年)徳川義直が尾張藩主となると引き続きこれに仕えた。慶長15年(1610年)67歳で没[10][11]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 元勝の長女が嫁いだ津田庄右衛門の娘で、元勝の外孫に当たる[8]。 ↑ いずれも次男・甚兵衛の娘で、元勝の実孫[8]。 出典 1 2 3 『名古屋市史』, p. 291. 1 2 3 4 『士林泝洄』, p. 172. 1 2 3 4 5 『名古屋市史』, p. 290. 1 2 『士林泝洄』, p. 169. ↑ 『士林泝洄』, p. 191. ↑ 『士林泝洄』, pp. 170–172. ↑ 『士林泝洄』, pp. 172–173. 1 2 3 『士林泝洄』, p. 173. ↑ 『士林泝洄』, pp. 170–171. ↑ 『名古屋市史』, pp. 290–291. ↑ 『士林泝洄』, pp. 171–17. 参考文献 名古屋市役所 編『名古屋市史』 人物編第1、中部経済新聞社、1968年。 名古屋市教育委員会 編『士林泝洄』 3巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1968年。 Related Articles