中村嘉寿
日本の政治家 (1880-1965)
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来歴
鹿児島県川辺郡西南方村(坊津村に改称後、坊津町、後の南さつま市の一部)に生まれる[4]。上京し水産講習所に入学。1900年(明治33年)に同講習所漁労科を優秀な成績で卒業[5]すると、米国へ派遣され捕鯨を研究する。続いてニューヨーク大学へ入学し政治経済を専攻、修士号(Master of Arts[4])を得た[6]。在学中に邦人の権利保護のため米国人と共同で弁護士事務所を設立。また星製薬社長の星一らと「日米週報」を発刊し自ら記者として筆を振るった[7]。1904年(明治37年)のセントルイス万国博覧会に審査官として参加。1907年(明治40年)頃には農商務省嘱託として欧米各国へ赴き缶詰産業を視察。その後日本の蟹缶詰を初めて米国へ輸出した[6][7]。
一方で小栗常太郎と共に当時まだ珍しかった自動車による日本周遊を企画。1911年(明治44年)4月3日にスチュードベーカー製のE.M.F.で東京を出発し、同月16日にかけて下関まで走った[8]。同年5月、日米英露の4ヶ国によりワシントンで開催されたオットセイ会議では日本代表の一員として参加。1912年(明治45年)に帰国して以降は、福徳銀行、輸出水産会社、内外水産会社等で取締役を務めた[6]。
1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に立候補して当選[9]。その後、第17回から第19回まで連続当選した[4]。
学生海外見学団を主宰した他、1930年(昭和5年)より東洋文化夏季大学・東洋文化大学を興し、海外より学生・教師を招いて日本文化の紹介に努めた[6]。また日英両文雑誌『海外之日本』を創刊し、社長に就任した[6]。
戦後直ぐに行われた1947年(昭和22年)の第22回総選挙に鹿児島全県区から立候補するも次点、しかし2月14日に山本実彦が議員を辞職したことで3月1日に繰り上げ当選して国政復帰を果たす。新憲法施行後初の第23回総選挙でも鹿児島1区から再選を果たすが、第24回総選挙では落選。更に1950年(昭和25年)の参院選と1956年(昭和31年)の参院選に全国区で立候補するものの当選には程遠い結果に終わった[10][11]。
1965年12月30日、死去。85歳没。1966年1月6日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従四位に叙された[1]。
著書
- 『スフィンクス』(日本出版印刷、1914年)
- 『世界を歩く』(朝風社、1935年)
- 『北米舌の聖戦』(玉川学園出版部、1938年)
- 『海軍の父山本権兵衛』(水産社、1942年)
- 『人間山本権兵衛』(軍事教育研究会、1943年)
- 『南米は招く 拓けゆく新天地の同胞』(昌平堂、1953年)
- 『世界を日本に』(森の道社、1956年)
訳書
- 『単純生活』(シャルル・ワグナー著、中庸堂、1905年)
