小栗常太郎
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生い立ち
愛知県知多郡半田の大資産家として知られた小栗家。常太郎は小栗富治郎の長男として1886年(明治19年)9月28日に出生。父は酒や醤油に時計の製造、銀行や紡績業など事業の多角化を進めていた[2]。
常太郎は1900年(明治33年)に旧制県立岡崎中学へ入学したが一年の途中で退学[3]。巣鴨の家庭学校を経て1903年(明治36年)7月、留岡幸助に従いアメリカ留学のため横浜港から土佐丸で太平洋を渡った[4]。その後、ミリタリー・スクールを経て1905年(明治38年)9月にペンシルベニア大学へ入学。1907年(明治40年)6月に卒業した[5]。在米中に自動車に強い興味を持ち、同年帰国する際フォード社のモデルB(4気筒24馬力、5人乗り)[6][7]を持ち帰る[注釈 1]。同年春、東京自動車製作所において初のガソリン式国産自動車が完成。これを記念して8月1日、有栖川宮威仁親王のダラックを先頭に多摩川まで日本初の自動車遠乗会が行われ、常太郎も全10台のうちの6番目としてフォード車でこれに参加している[注釈 2]。
この頃父は、同年5月の小栗銀行倒産を発端に次々と事業を整理しており、常太郎は独自に新たな事業を模索。男爵・藤堂憲丸らと1910年(明治43年)6月に設立した興業貯金、そして9月に福岡長平らと設立した東京自動車の両株式会社で取締役を務めた[注釈 3]。
また米国車・スチュードベーカーの東洋総代理店の代表を務める中村嘉寿と共に同社の自動車E.M.F.による日本周遊を企画した常太郎は、1911年(明治44年)4月3日に東京を出発。記者3人を同乗させて西へ向かったが、途中故障のため大阪で3泊。車は同月13日に広島[注釈 4]、16日に下関まで到着したものの、当時の車体性能や道路事情を踏まえてそれ以降の進行は断念した[12]。
飛行家として
飛行家を志した常太郎は1916年(大正5年)2月に再び渡米[5]。1917年(大正6年)にカーチス飛行学校高等科を卒業すると、同年ニューヨーク郊外のキーン飛行学校で教官を務めた。1918年(大正7年)4月帰国[5]。5月より臨時軍用気球研究会で高速度飛行研究用に輸入されたスタンダードH3型複葉機(米国製)の試験飛行係となったが、飛行でのミスから技術に疑問を持たれた事ですぐに辞任している。同年11月に三井物産の嘱託となり、12月に妹・ふさ[注釈 5]を連れて横浜港から天津丸に乗船。助手の白水利雄[注釈 6]も同伴して渡米した。
三井物産は第一次大戦での需要増大をみてアメリカから飛行機の大量購入を計画。飛行機に造詣が深い常太郎はニューヨーク支店飛行機係として赴任するが、大戦はすでに終結目前であり計画倒れに終わった[注釈 7]。翌1919年(大正8年)7月に帰国し9月退社[5]。同月、所沢陸軍飛行場にて小栗式諸機械を作製する。常太郎はカーチス社のJN4、愛称ジェニー[注釈 8]を日本に持ち帰っており、白水と共に組立てると12月に深川区洲崎の埋立地で初飛行を行った。
常太郎は1920年(大正9年)2月にジェニーで念願の郷土訪問飛行を行うと発表。同月11日に白水を同乗させ洲崎を飛び立ったが、給油地の静岡練兵場に着陸する際、突風に煽られ水田へと突っ込む。機体は大破し2人は軽傷を負った[15]。
飛行学校の設立
1920年(大正9年)3月、洲崎埋立地に小栗飛行学校を開設する[16]。墜落した機体を作り直して小栗式カーチス機と命名すると、伊藤飛行機研究所に発注したものと合わせて2機体制でスタート[注釈 9]。航空局の飛行免状第一号となる藤縄英一らを輩出した。日曜日には遊覧飛行も行っており、同年6月20日には富岡門前仲町の芸者2人が男の客と共に来訪。最初に男を乗せて10分飛んだ際は大丈夫だったが、次に芸者・六助を同乗させた際に洲崎遊郭近くの木材置き場に墜落。常太郎は「芸者と落ちた飛行士」として一躍知られるようになった[注釈 10]。
この墜落の約2ヶ月前、同年4月に帝国飛行協会主催の東京大阪周回無着陸懸賞飛行競技が開催される。参加者は民間飛行家の三太郎と称された常太郎、そして飯沼金太郎と山縣豊太郎の予定であったが、常太郎が辞退し飯沼と山縣で争われる事になった。山縣の操縦する伊藤式恵美号(150馬力)は往復6時間20分で見事無着陸飛行に成功したが、対する在米同胞号(220馬力)は丹沢山中で衝突。命は助かったものの、飯沼は飛行士を引退する重傷を負った[注釈 11]。
1921年(大正10年)5月、常太郎は洲崎埋立地にある飛行学校の隣に小栗自動車学校を開設。米国時代の友人で、ロサンゼルスで自動車学校校長をしていた小川喜平を同校校長に迎えた[19]。
この埋立地では1922年11月と1923年4月に自動車大競走が開催され常太郎も協力。自動車と飛行機の競争に出場し、野澤三喜三の運転する車に飛行機で快勝している。1923年(大正12年)9月、関東大震災発生のため学校を閉鎖。1924年(大正13年)4月より鉄道省嘱託の飛行士となった。この頃常太郎は浅草オペラのスター・木村時子と付き合っており[20]、その後結婚している。1932年(昭和7年)洲崎埋立地に小栗飛行学校を再建[16]。やがて太平洋戦争が激化すると国内の飛行学校は次々と閉鎖していった。その後は鎌倉へ移住。遅くに授かった息子・永智を若くして結核で失う[注釈 12]。常太郎は1962年(昭和37年)7月5日[1]、同地で没した。
家族
脚注
注釈
- ↑ 日本の地を走った最初のフォード車とされる[8]。
- ↑ 初の国産ガソリン車は技師の内山駒之助と東京自動車製作所所長の吉田真太郎によって造られた。遠乗会は試運転も兼ねており、参加10台のうち3台が東京自動車製作所のもので他は外国製であった[9]。
- ↑ 東京自動車の方では取締役社長を務めた。また弟の小栗啓次郎も興業貯金で取締役を、東京自動車で監査役を務めている[10][11]。
- ↑ 兵庫県須磨海岸では姫路行きの列車を見かけてスピードを競い、ついに列車を追い抜いた。この時の時速52マイル(約84㎞)という速度は競争車を除く国内最高記録ではないかと常太郎は語っている。
- ↑ 兄の帰国後もアメリカに残り、ボストンにあるシモンズ女子大学(英語版)の大学院で学んだ。
- ↑ 1899年生まれ[13]。福岡市出身で実家は米穀店。海野幾之介の助手を経て千葉県印旛沼に飛行練習所を開設したが失敗。飛行士として小栗飛行学校に勤めていたが、1921年3月心臓麻痺で急逝した[14]。
- ↑ 常太郎が乗船した往路の船に講和条約の副使一行も乗っていたとされる[3]。
- ↑ 日本に持ち込まれた初のJN4とされる。
- ↑ 練習機の機体には黒猫が描かれていたが、これは飛行機を齧るネズミを除けたいという常太郎の思いからだったとされる。
- ↑ 六助(本名・河村きん)は当時21歳。以前から一度飛んでみたいと思い他の2人を誘って来場した。遊覧に使用した機体は練習機であり、旋回中に後部座席の六助が目の前の操縦棹にしがみついたのが墜落原因とされる。常太郎は軽傷で済んだが機体は真っ二つとなり、六助は前歯三本を折って顔面裂傷及び右肩脱臼と重傷を負いお茶の水の順天堂病院に入院した[17][15]。
- ↑ 在米同胞号は中島製発動機の調子が悪く、出発が数時間遅れた。気が逸るところへ箱根で雲中に入ってしまい、丹沢山の岩壁に衝突して両足を折る大怪我を負った[18]。この事故で飛行家を引退した飯沼だったが、後に亜細亜航空学校を設立し後進の育成に務めている。
- ↑ 永智は1940年生まれの聾画家・飯島義也と幼友達であり、常太郎が木村時子と離婚後、50代の頃に別の女性との間に授かった子と考えられる[21]。
出典
- 1 2 『昭和物故人名録』(昭和元年~54年)日外アソシエーツ、1983年7月、117頁。NDLJP:12210190/65。
- ↑ 小島健司『明治の時計』校倉書房、1988年2月、112-113頁。NDLJP:13323751/61。
- 1 2 『あいちの航空史』中日新聞本社、1978年9月、48-51頁。NDLJP:12065344/35。
- ↑ 藤井常文『留岡幸助の生涯:福祉の国を創った男』法政出版、1992年6月、232-233頁。NDLJP:13279153/125。
- 1 2 3 4 『航空年鑑』(昭和6年)帝国飛行協会、1931年、637頁。NDLJP:1177942/338。
- ↑ 『世界の自動車』(1972年版)朝日新聞社、1972年、58頁。NDLJP:12676125/32。
- ↑ 『日本自動車工業史稿 第1』自動車工業会、1965年、83頁。NDLJP:2508658/57。
- ↑ 『1億人の昭和史』 14 (昭和の原点 明治 下 明治34-45年)、毎日新聞社、1977年7月。NDLJP:12395912/109。
- ↑ 柳田諒三 編『自動車三十年史』山水社、1944年、34頁。NDLJP:1059512/30。
- ↑ 輿真市、渡部六尺 編『東京法人要録』(2版)東京証券商会、1916年、301頁。NDLJP:936750/221。
- ↑ 『東京商業会議所月報』3 (10)、東京商業会議所、1910年10月、53頁。NDLJP:1549150/36。
- ↑ 尾崎正久『日本自動車史』(昭和6年)自研社、1942年、60頁。NDLJP:1874616/40。
- ↑ 『飛行』2 (1)、帝国飛行協会雑誌発行所、1921年1月、63頁。NDLJP:1491745/41。
- ↑ 稲村徹元、井門寛、丸山信 編『大正過去帳:物故人名辞典』(昭和9年)東京美術、1973年、225頁。NDLJP:12192848/156。
- 1 2 3 『あいちの航空史』中日新聞本社、1978年9月、52-56頁。NDLJP:12065344/37。
- 1 2 『航空年鑑』(昭和9年)帝国飛行協会、1934年、465頁。NDLJP:1177406/280。
- ↑ 『航空情報』366号、せきれい社、1976年11月、126-127頁。NDLJP:3290334/62。
- ↑ 福島鉚太郎 編『翼の誕生』東華社書房、1943年、133-137頁。NDLJP:1068522/74。
- ↑ 福島鉚太郎 編『自動車年鑑』(昭和4年)交通問題調査会、1929年、410頁。NDLJP:1177175/207。
- ↑ 『日本警察新聞』617号、日本警察新聞社、1924年9月、10頁。NDLJP:1577160/6。
- ↑ 飯島イソ子『音無き世界に生きて』野鳥社、1990年1月、63頁。NDLJP:13291669/40。
- ↑ 全日本児童舞踊家連盟 編『児童舞踊五十年史』全音楽譜出版社、1958年、457頁。NDLJP:2486359/246。