中村家長
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経歴
応永22年(1415年)、足利持氏と上杉氏憲の間で対立が起き、氏憲が関東管領を更迭されると後任に上杉憲基が管領についた。
応永23年(1416年)、上杉氏憲が足利持氏への反乱(上杉禅秀の乱)を起こすと[2]、足利持氏より家長へ氏憲追討の命が下り、家長は兵を率いて宇都宮持綱と共に武蔵へと氏憲討伐に向かい、江戸氏・豊島氏ら武蔵の武士団が呼応して武蔵から氏憲勢力を排除した。翌応永24年(1417年)、上杉氏憲や足利満隆、足利持仲らが鎌倉で自害し反乱は収束した。
応永29年(1422年)、小栗満重、真壁秀幹の軍に中村城が攻め込まれると、家長は嫡男の綱長ととも中村領の守備に入り、それ後一族である伊達持宗からの援軍を得て小栗・真壁軍をを撃退した[3]。
足利持氏に対し小栗満重が、応永25年(1418年)、応永29年(1422年)と再度持氏への反乱を起こしたため、応永30年(1423年)、になると持氏は大軍を率いて小栗満重を攻めた。家長は嫡男の綱長と伊達持宗の軍と共に小栗追討軍に加わり[3]、満重は居城であった小栗城で自刃して果てた(小栗満重の乱)[4]。