中村恵迪 From Wikipedia, the free encyclopedia 中村 恵迪(なかむら けいてき、寛永17年(1640年)- 享保6年3月20日(1721年4月16日))は、初め大垣藩士で江戸時代中期の儒学者でもある。後に水戸藩彰考館の史臣となり、徳川光圀・綱條の二公に使える。 諱は淑民、通称は紋四郎、号は恵迪、晩年は閨翁など。 寛永17年(1640年)、美濃大垣に生まれる。父・中村宗太輔重政は三河国宝飯郡下五井村に生まれ、元和6年(1620年)8月戸田氏鉄に仕官。寛永14年(1637年)島原の乱に馬廻として従軍。正保4年10月20日(1647年11月26日)に大垣にて53歳で死去した。母は大垣戸田家の家臣、林源兵衛の娘。父重政の死去により家督相続し大垣藩2代藩主の戸田氏信に仕える。 延宝3年8月26日(1675年10月15日)、恵迪が36歳のとき弟の中村五郎太輔重藏に家督を譲る。 その後、水戸藩に出仕し切符小十人組で彰考館の史臣となる。 延宝4年(1676年)光圀により、神武以来の日本の漢文を収めた文集の編纂が命じられ、今日の『本朝文集』と呼ばれている詩文集の編纂責任者となる。この詩文集は、貞享3年(1686年)8月、中村恵迪により完成報告の文章 「上文集詩集疏」とともに光圀へ上呈された。 元禄4年1月11日(1691年2月9日)彰考館から移動し新料理間番勤・徳川吉孚の傅役となる。元禄10年2月23日(1697年4月14日)小納戸役。元禄16年8月27日(1703年10月7日)老身のため寄合組となった。晩年は、江戸小石川金剛寺坂付近で塾をひらき金剛坂先生と呼ばれていた伝えがある。 享保6年3月20日(1721年4月16日)82歳で死去、江戸小石川伝通院寺中真珠院に葬られる。戒名 観喜院三譽淑民法心居士 現墓所は、水戸市光台寺。 系譜・子孫 この節の加筆が望まれています。 (2026年1月) この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。表示編集この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles