本朝文集
From Wikipedia, the free encyclopedia
編者・中村恵迪による「上文集詩集疏」が増補前の文集目録に附されて残っている。それによれば、延宝4年(1676年)光圀が文集の編纂を命じ、4年かけて完成させたこと、次いで詩集の編纂が命じられ、2年かけて完成させた。その後も、光圀は「常に遺漏を慮って」おり、増補作業が進められ、貞享3年(1686年)8月、詩集40巻、文集50巻、計90巻としてこの疏と共に光圀に提出されたという[3]。しかしその後も増補されて、文集は現80巻に肥大化した[4]。
元録4年(1691年)1月11日、中村が役替えとなり、3月、石井三朶花が編集責任者となる。7年(1694年)閏5月、「詩文集」が再提出され、石井に「御褒美白銀五枚」が下された。9年(1696年)6月、石井が『大日本史』編散に移動し、加藤宗博が編集責任者となった。しかし、「詩文集」は光圀の死後、「いつのまにか編集が放棄されてしまった」[5]と考えられる[6]。
現在も彰考館に詩文集120巻・目録3巻(詩集1+文集2)・「本朝文集補遺姓氏」(増補分の作者名と略伝、引用書目一覧)1巻、増補前の目録3巻(詩集1+文集2)が収められている[7]。また、1886年9月に写された「文集」が東京大学史料編纂所に収められており、1966年、これを底本に『本朝文集』が『新訂増補国史大系』第30巻として刊行された。しかし、「新訂増補国史大系」本は『新訂増補国史大系』内での重複作品を省いており、完本とはいえない[8][9]。また「詩集」いたっては刊行すらされていない[10][11]。
内容
詩集
上述の通り、詩集は刊行すらされていないが、後藤昭雄が平安時代の佚詩の拾遺のため「詩集」を調査しており、いくつか紹介している[12]。
- 巻11:藤原菅根「重陽後朝眺望 泛秋水」「望秋山」「紅葉路」「菊花残」「輪十日未全盈、夜還勝十五。相助照三千世界、更添明。九詠外有勅、更献翫月詩一首」[13]
- 巻14:源為憲「去年春、参州府君以旧侍中労拝除。時人以為抽賞至矣。今年春、僕以前刺史功拝任。天下亦称採択明焉。同類相求、古之謂也。府君閲除書後、作長句詩一篇、相賀之。待僕之莅境、幸被視其草。嗟乎、二人同心、両州接境。不堪黙止、試押本韻。」[14]
- 巻17:平定親「夏日陪北野聖廟聴法華経」[15]
- 巻18:源経信「水仙花」[16]
- 巻20:源師頼「山居」[17]
- 巻21:藤原顕業「偶成」「元旦」[18]
- 東大寺図書館蔵『願文集』所載詩(菅原定義、藤原義綱、源資宗、菅原清房など)[19]
文集
著者ごとに、『本朝文粋』に準拠した配列(賦→詔→官符→封事→対策→論奏→表→奏状→序→詞→讃→論→銘→伝→牒→祭文→願文→諷誦文)で文を並べている[20]。
「新訂増補国史大系」を基に作成