中村政美
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長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)在学中に、投手として1941年夏の甲子園長崎県大会に出場し、決勝で鎮西学院を下して優勝した。(その後に参加予定だった北九州大会及び本大会は、戦局の悪化により中止となった。)
1943年に東京巨人軍に入団。背番号は34[6]。この背番号は1970年4月2日に、金田正一が付けていた番号として永久欠番になったが、巨人軍で初めて背番号34を付けたのが中村だった。投手として入団するも、戦争の激化により応召される選手が続出し、巨人軍と言えども選手不足に陥る状況にあったため、野手(三塁手)としての出場の方が多くなっていった。
10代の若さで入団した故、最初は苦労していた面もあったが、1943年終盤より台頭し始めた。1943年11月7日、このシーズンの最終戦でもある阪神戦(後楽園球場)で初めて4番に座った[3](巨人軍第10代4番打者となる[5])。翌1944年シーズンは開幕戦を含めた26試合(全35試合中)で4番を任され、戦時中の物資不足で公式球の質が悪化していた中で打率.220、本塁打1本(ちなみにこの年の本塁打王は、金山次郎〈産業〉の3本)の成績を残した。シーズン中盤には、右翼手としても出場した。
1944年シーズン終了後に応召。翌1945年1月29日、戦死した[5](死没場所は不明)。享年20。東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑に彼の名が刻まれている。