中村春続
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永禄7年(1564年)から永禄8年(1565年)頃と推定される「山名豊儀書状写」において山名豊儀[1]の被官「中村大炊助」として登場するのが史料上の初見である。
天正2年(1575年)、山名豊国の被官として吉川元春のもとへ派遣された。
天正8年(1580年)の羽柴秀吉の鳥取城攻撃の際、織田氏に降伏した主君の山名豊国を森下道誉らと共に鳥取城より追放し、新たな城主として吉川経家を迎えた。
翌天正9年(1581年)の第二次鳥取城攻撃では吉川経家らと鳥取城に籠って秀吉軍に抗戦したが、兵糧攻めによって多くの餓死者を出すことになり、鳥取城は同年10月に吉川経家の切腹によって開城した。生前の経家が春続と森下道誉の助命を嘆願したが聞き入れられず、「因幡一国に戦乱を招いた罪」と「主君への裏切りの罪」で切腹を命じられ、10月24日の晩、吉川経家が自刃した同じ陣所[要出典]にて自刃した。享年などは不明。なお、鳥取城内にいた春続の子は父・春続の切腹後に保護され、吉川氏の家臣となったとされる。