中津川代官所
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代官の役料
山村甚兵衛家は江戸時代初期においては木曾と同様に各村に、村代官[1]を置き、大きい村には村分(むらわけ)代官を置いて支配した。
当初、中津川代官は土着の有力者(地侍や帰農した武士の子孫による庄屋)が中津川宿のみを管轄する村分代官に過ぎなかったが、寛文2年(1662年)以後は、木曽福島の木曾代官所から代官が中津川へ派遣されるようになった。
中津川代官所は、木曽福島の木曾代官所の支所的なもので、恵那郡内の知行所の年貢収納が第一の用務であり、これを主として春の宗門改め、川除け見分[2]、秋の検見役などを行った。
この様な実務的処理が中心であった。すなわち下役の者が村を廻り年貢米の処置について勘定所へ通知の上で、払下代金を処理して、勘定仕上帳を下役名印奥書で調製し、村方からの請願書も下役宛名で出させており、それぞれを中津川代官所が裁許した。
しかし、重要事項や臨時の事件については木曽福島の木曾代官所に申達して年寄(家老)の指図を請けた。
また年賀の挨拶については、中津川代官所の管轄下であった恵那郡内の村々の庄屋、問屋たちは、木曽福島の木曾代官所に出頭して、山村甚兵衛家当主に賀詞を述べた。
享保8年(1723年)2月に発生した木曾代官所の火災焼失後は御用捨となったが、実際は続いていたようである。
代官の役料については、正徳元年(1711年)までは無く、田畑と屋敷の作徳米と家賃の上りが代官の収入であったが、この時より、これらの収入は請払勘定として代官所の収入に組入れ、改めて役料20石を支給されることになった。
享保10年(1725年)以後に中津川代官所が管轄した知行所
中津川代官所が恵那郡内の山村甚兵衛家の知行所全域を管轄下に置くようになったのは、享保10年(1725年)に茄子川村の安田作十郎が大借金をして村代官を辞職した後からである。
- 落合村 480石5斗の内 240石2斗5升
- 中津川宿 1,334石6斗3升の内 1,334石6斗3升
- 手金野村 456石5斗4升の内 456石5斗4升
- 千旦林村 552石6斗2升の内 126石3斗1升
- 茄子川村 1,368石6升の内 350石
- 正家村 873石2斗7升の内 200石
合計 2,707石7斗3升
所在地
中津川代官所は当初は、中津川市北野に設置された。
萬留書 木曽山順見之一巻に、
惣奉行 佐藤半太夫 以下 大工絵師を連れた一行十五人 右之衆 寛文四辰十日ニ 尾州発足十二日ニ 落合へ参着 中津川にて 富田御屋敷をかり申度由 断って即御屋敷にて 土ニテ山形を作り置き 夫を木形に作り候を さいしき申され候 谷中(木曽)より 肝煎一人 年寄一人づつ 中津川へ罷越 我村々の山 形土にて作り立申候事
とあって、木曽谷中の絵図作りに、中津川の富田御屋敷を使用したことをあげている。
この富田というのは北野地内にあり、寛文(1661年~1673年)の頃は北野に代官所があったことを証している。
御屋敷が代官所であることは、これが地名として残っていることを見ればわかる。
中津川代官所は後に、現在の中津川市西宮町の西生寺の南一帯に移された。
今も残る稲荷社は代官屋敷内に祭祀されていた社である。
これは中津川宿の有力者であった丸山久右衛門の土地であった。
山村甚兵衛良喬が書いた中津川滞留日記の、天保11年(1840年)2月9日のところに
天気好 一 今日初午ニ付 代官 鎮守稲荷江 まんちう 五十供候事 今日は日悪敷 参詣は 追テ之事 二月十日 昨日稲荷江 供候御神酒 開ニテ 伊東二郎ㇵ 市岡長右衛門 羽間杢十郎 羽間重蔵 井鎌七 呼出呉候 長右衛門 重蔵 鎌七より 酒二樽上り 杢十郎より 重詰肴上候事 酒壱壺添
とあって、稲荷社の祭りに中津川宿の有力者が酒肴を出していることがわかる。
中津川代官所の建物は、この一帯に明治時代まで残されていたが、現在は何も残っていない。
代官名
市岡家は、戦国時代には美濃恵那郡の支配者であった遠山氏の重臣として、中津川城(徳ノ城)の城主を任されていた旧家で、江戸時代になると中津川宿の名主と中津川宿本陣の当主を兼務した。
- 寛永 6年(1629年) 市岡長右衛門
- 寛永18年(1641年) 宮川半右衛門 (落合宿代官も兼務)
- 寛永21年(1644年) 井沢藤右衛門・丸山久左衛門
- 正保3年-明暦 3年(1646年-1657年) 宮川半右衛門 (落合宿・手金野・千旦林の代官も兼務)
- 慶安 4年(1651年) 丸山久左衛門・市岡権兵衛
- 慶安元年-万治 3年(1648年-1660年) 市岡長右衛門
- 万治元年-万治 2年(1658年-1659年) 丸山久右衛門・堀尾作左衛門
- 万治 3年-寛文 7年(1660年-1667年) 市岡長右衛門 (下町・中村・薄野・かおれの村分代官も兼務)
- 寛文 2年(1662年) 桑原勘兵衛 (木曾代官所から派遣された初めての代官)
- 延宝 9年-元禄 5年(1681年-1692年) 原茂右衛門
- 元禄 5年-元禄15年(1692年-1702年) 川口茂右衛門
- 元禄16年(1703年) 原彦左衛門
- 元禄17年-宝永 4年(1704年-1707年) 川崎八郎右衛門
- 宝永 5年-宝永 7年(1708年-1710年) 井沢小一郎
- 正徳元年(1711年) 向井六内 (これ以後、役料を受け取るようになった)
- 正徳 2年-享保11年(1712年-1726年) 沢田与惣左衛門
- 享保12年-元文 4年(1727年-1739年) 堀尾作左衛門
- 元文 4年(1739年) 山県五太夫
- 元文 6年-寛延 2年(1741年-1749年) 向井五右衛門
- 寛延 2年-宝暦 2年(1749年-1752年) 磯野郷右衛門
- 宝暦 2年-宝暦 6年(1752年-1756年) 大脇文右衛門
- 宝暦10年-宝暦13年(1760年-1763年) 平野新五左衛門
- 宝暦14年-明和 6年(1764年-1769年) 川口茂左衛門
- 明和 6年-天明 6年(1769年-1786年) 宮川弥五右衛門
- 寛政元年(1789年) 原彦八郎
- 寛政 6年(1794年) 三村与八郎
- 寛政 7年(1795年) 原彦八郎
- 寛政 9年(1797年) 宮地源右衛門
- 寛政10年(1798年) 上田伴右衛門
- 文化 6年(1809年) 高坂等作
- 文政 2年(1819年) 上田伴右衛門
- 文政12年(1829年) 平野文助
- 天保元年(1830年) 原九郎左衛門
- 天保 7年(1836年) 大脇武一郎
- 天保 8年(1837年) 伊藤治八郎
- 弘化 3年(1846年) 小島与一右衛門
- その後 三尾勘兵衛
- その後 小野伝右衛門
- 明治元年(1868年) 松井八左衛門