中田直慈

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中田 直慈(なかた なおしげ、1847年11月22日弘化4年10月15日[1]) - 1902年2月22日[2])は、日本宮内官僚大正天皇が皇太子時代の東宮主事や、内大臣秘書官、宮内書記官等を歴任した。位階および勲等正五位勲四等

羽後亀田藩士中田曾平、母栗原佐登の長男として、亀田城下徒士町(秋田県由利郡亀田町岩城町→現在は由利本荘市岩城亀田)に生まれた[要出典]幼名は長吉。のちに久米蔵と改めた[3]。幼より学を好み、史籍に通暁していた[3]。学問に優れ、長じて藩校長善館の教授となり、後、学監として子弟の教育にあたった。戊辰戦争時は17歳で、藩の斥候として活躍し、の名手として名を馳せた[3]

1870年(明治3年)の数え年25歳時、鳥海弘毅久野謙次郎らとともに貢士に抜擢され、[要出典]藩命で上京した[3]国学平田篤胤の門に学び[3]大学南校(現・東京大学)へ遊学した。[要出典]

1872年から山梨県に出仕[1]1879年地租改正局に出仕し[1]、大蔵収税属を経て、1884年から鹿児島県収税長[1]1893年から岐阜県収税長[1]1896年6月に熊本県収税長[1]に任じられたのち、同年11月に宇都宮税務管理局長[1]に任じられた。1897年宮内省にて内蔵助兼調度局主事となった[1]

大正天皇皇太子時代には東宮主事を務めた[1]1901年内大臣秘書官となり、宮内書記官に兼ねて任ぜられた[1][4][5][6][7]

1902年(明治35年)2月22日、東京市青山にて脳充血で倒れ、[要出典]卒去(満54歳)[3]正五位勲四等に叙せられ瑞宝章追贈された[3]。墓所は青山霊園1-ロ-18。

人物

その人となりは渡辺千秋により「君の天資は敦篤重厚、事に臨みて苟もせず、思いて後言い、慮りて後行う。是を以て官に在ること三十年、竟に一失なく、措らうところ常に聲績あり。平生倹薄、自ら慈愛を捧じて人に接す。人君子たりと称せざることなし」と墓碑銘に記されている[3]

墓碑銘

(原文)
正五位勳四等中田直慈君墓碑銘
君諱直慈幼稱長吉後更久米蔵姓中田氏世仕亀田候 考諱曾平妣栗原氏弘化四年丁未十月十五日生幼好學通暁史籍長為藩學教授遷學監明治三年奉藩命來江戸學國典于平田篤胤之門已而廢藩置縣士皆解常職乃官山梨縣轉大蔵收税屬十七年以降歴任鹿児 島岐阜熊本三縣收税長至宇都宮税務管理局長三十年轉内蔵助兼調度局主事後爲東宮主事遷内大臣秘書官攝宮内書記官初敍從七位累進正五位敍勲四等賜瑞寶章君天資敦篤重厚臨事不苟思而後言慮而後行是以在官三十年竟無一失措所在常有聲績平生儉薄自奉慈愛接人人莫不稱爲君子焉三十五年二月二十二日以病卒於東京青山之寓年五十有六葬于青山之墓域浮屠諡曰仁壽院行譽單直慈愍居士君娶葉山氏奉四子長男曰薫嗣次曰文雄夭次曰三郎次曰四郎有二女余與君相知相交于茲二十年一朝溘亡幽明永隔 毎思之未曾不惻然今茲小祥期至嗣子薰來請銘義不可辭因据状敍梗概繋之以銘銘曰 敦篤重厚 在職循良 音容恍惚 青山之域 卜宅固藏 鶴唳何處 暮雲蒼蒼
明治三十六年二月 内藏頭從三位勳一等男爵 渡邊千秋撰竝書

(意訳)
正五位勲四等、中田直慈の墓碑銘
直慈は幼名を長吉といい、後、久米蔵と改めた。中田氏は代々、亀田候に仕えた。亡父は曾平、亡母は栗原氏で、弘化四年十月十五日に生まれた。幼いときから学問を好み、史籍に通暁し、長じて藩学教授となり、後、学監を務めた。明治三年、藩命にて江戸に上京し、平田篤胤の門人として国典を学んだ。その後、廃藩置県となり、藩士は皆、職務を解かれた。君は山梨県で官職として務め、大蔵収税属に転じ、明治十七年以降は、鹿児島、岐阜、熊本三県の収税長を歴任し、宇都宮税務管理局長に至った。明治三十年、内蔵助兼調度局主事となり、後、東宮主事を務めた。最後は、内大臣秘書官と宮内書記官の任務を果たした。従七位より累進し、正五位勲四等を叙され、瑞宝章を賜った。君の天質は敦篤重厚であり、どんな仕事もいい加減にすることはなく、よく思慮して後、発言し、行動していた。官職での三十年間は、一度の失敗もなく、行いはいつも評判が高かった。平生より質素倹約に努め、慈愛をもって人に接していた。人は皆、君子と称した。明治三十五年二月二十二日、病のため東京青山の自宅で倒れ、五十六歳で青山霊園に眠ることとなった。戒名は仁壽院行譽單直慈愍居士。君は葉山氏の娘を娶り、四人の男子を授かった。長男は薫。次男の文雄は残念ながら幼くして夭した。その後、三郎、四郎が生まれた。他に二人の女子を授かった。君と交友すること二十年、君は突然、冥土へと旅立ってしまった。このことを思うと、今も、心が晴れ晴れすることはない。君の一周忌に長男の薫が訪ねてきて墓碑の銘を依頼された。道義上、断ることができず、生前の君を思い起こし、ここに記す。「君は人を思いやる心が篤く、どっしりと落ち着き、厚みのある人だった。職務にあっては、素直さや質朴さが表れていた。声や容姿は、うっとりと心を奪われる様だった。ああ、青山のこの地は、墓所として落ち着いたよい場所で、どこからともなく鶴の鳴き声が聞こえてくる。遠くに目をやれば、夕暮れの雲が蒼々とたなびいている。」
明治三十六年二月 内蔵頭従三位勲一等男爵 渡邊千秋選ならびに書す

著書

(編著)

  • 『島嶼見聞録』鹿児島県、1887年

系譜

展示

脚注

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