中筋 (宝塚市)
From Wikipedia, the free encyclopedia
中筋は1955年まで長尾村の一部であったが1955年3月10日に宝塚市の一部となった。
歴史
江戸時代初期は中筋には中筋村という村が存在した。村の宗派は法華宗であった。これは当時、「中筋村の飢饉」が起こり、大変な不作であったために納める年貢に悩まされていた。このような中、偶然にも村人の一人が、米俵を積んだ舟が淀川筋を登っていくのを見かけた。その米は姫路藩主・池田輝政の幼い息女がなくなり、その百か日の法事の御供養米として、京都の法華宗の本禅寺へ届けるものであった。そのことを知った村の代表達が村を救うよう嘆願した。しかし、寺の日邵上人は「お困りなのはよくわかったが、法華宗の宗義として他宗のものには米一粒、銭を一銭たりとも援助することはできないのです。たとえ何人かの法華宗のものがいたとしても、村全体のために米をわけてやる訳にはいきません」と返答した。その後村で話し合った結果、今度は村民全員で本禅寺へ行き、「村に住む者は皆、法華宗に帰依します。これは子々孫々まで変わることはありません。このたびの願い、どうぞかなえてください」と申した。そして寺に以下の証文を差し出した。
一 中筋村に暮らすものは全員、法華宗を守り、子々孫々まで法灯(ほうとう)をかかげます。
一 他の宗派から宗旨がえを求められても応じません。
一 前の宗派へ隠れて詣でることもしません。
お米を融通してもらうことができ、年貢を納めることができた中筋村は、全員が法華宗の陣門流に帰依した。その後、京都に詣でるには道のりが遠いことから、古くからあった村の寺を建て直した。その寺の名は、亡くなった池田輝政の息女の法名「縁了院殿妙幻叔霊(えんりょういんでん みょうげんしゅくれい)」の妙幻に因み、「妙玄寺」とした。その上、村の角には「南無妙法蓮華経 法界」と刻まれた法界石を建て、村の宗派が法華宗であることを明らかにした[4]。
