丸山昭
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1953年(昭和28年)、大日本雄弁会講談社(現・講談社)に入社。1954年(昭和29年)、『少女クラブ』編集部配属となり、当時「リボンの騎士」を連載していた手塚治虫の担当となり、以後、手塚番を6年務めた[7]。
1955年(昭和30年)8月、手塚治虫を訪ねてきた石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)、赤塚不二夫、長谷邦夫に偶然出会う。後に石ノ森、赤塚担当となり、トキワ荘に住む漫画家達との交流が始まる。このころ、水野英子の投稿作に注目し、後にトキワ荘に水野を呼び寄せ、育て上げる。
1958年(昭和33年)、『ぼくら』編集部に異動。翌1959年(昭和34年)には、『少女クラブ』編集長となる。
1967年(昭和42年)、講談社フェーマススクールズの設立に参加し、同社の取締役となる。
1981年(昭和56年)1月13日、手塚治虫が中心になり、トキワ荘のかつての居住者らが集まりトキワ荘の同窓会(「同荘会」と呼称[8])が開かれ、漫画家以外では唯一の参加者となる。その模様はNHK特集『わが青春のトキワ荘~現代マンガ家立志伝~』として同年5月25日に放送されたが、丸山は映っていない[9]。
1998年(平成10年)、講談社を退社。
2001年(平成13年)、トキワ荘グループの漫画家を育てた功績に対して、第5回手塚治虫文化賞特別賞が授与された[10]。
2002年(平成14年)、「私の八月十五日」の会に参加する。
2000年代後半には、かつての漫画編集者を取材し、江東区森下文化センターで元編集者や漫画家を招いて講演会を開いて、現場の記録を残す活動をおこなっていた[11]。
人物像
- 漫画家の水野英子は、1970年代に現場のことを理解していない編集者が多く、原稿がゴミのように捨てられるケースが多い中、丸山はきちんと原稿を戻してくれたと語っている[12]。