神戸市葺合区熊内町生まれ。駒澤大学中退。明治大学文芸科に入り、里見弴の指導を受ける。中山義秀の紹介により創元社に入社。のち改造社に転職。結核を患い、1943年頃から悪化。病床で執筆を行った。没後、1949年に短編小説集「四人の踊リ子」が刊行された[1]。
- 父親の厳命により駒澤大学に入学したが、文学志望が止まらず1年で退学。明治大学文芸科に入り直す。
- 妹と朋輩であった宝塚歌劇の踊り子と結婚し、そこから「四人の踊り子」を書いた[3]。
- 作風は繊細で清潔であると言われる[4]。
- 肺結核が1943年頃から悪化。過労と不養生のため命を落とす。