丸根賛太郎
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1914年5月12日、山口県下関市に生まれる。本名は赤祖父富雄[3]。京都帝国大学在学中より菅沼完二監督の助監督をしていて、その菅沼の紹介で1935年日活京都撮影所に助監督として入社。大学は中退した。1939年、『春秋一刀流』で監督昇進。この映画は戦時中のチャンバラ映画の傑作とされ、山中貞雄の再来と評される[4]。戦後は『狐の呉れた赤ん坊』『月の出の決闘』などで高い評価を得る。1959年の『高丸菊丸 疾風篇』が監督として最後で、以後はテレビドラマの脚本を執筆した[5][6]。
作中で登場人物が目的の場所へ向かう場面で多用される「○○(地名)へ!」という字幕をズームで表記する演出を得意とした。
2009年7月27日、チューリップテレビは『越中人譚 日本映画界をリードした富山人~河浦謙一 丸根賛太郎~』を放映し、丸根賛太郎の足跡を紹介した。