丹後和紙
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歴史
起源
丹後地方は、古来より日本の表玄関として栄え中国や朝鮮から最新の文化が入ってくる場所であったため、日本の中でもいち早く紙づくりが定着したと考えられる[1]。744年に書かれた正倉院文書「図書寮解(ずしりょうげ)」には紙の生産地であることが示されており、少なくとも1300年以上前から紙づくりが行われていた可能性があるといわれている[1][3]。
江戸期
大江町での和紙制作は、大江山の麓の「北原」という集落ではじまったとされている[1]。慶長年間(1596~1615年)の史料には、宮津藩に年貢として半紙を収めていたという記録が残っている[1]。
明治期
江戸時代末期から明治期にかけて、周辺地域へと名が広まり大江町域が「河守紙」や「二俣紙」の名で広く知られるようになった[4]。また、楮(こうぞ)の生産地として由良川沿いが国内有数を誇るようになり、手すき和紙生産は明治末期に盛業し、農家の冬季の副業として行われていた[4]。
昭和期以降
昭和に入ると洋紙や機械漉き和紙の普及により、手すき和紙を生産する農家は10軒程度にまで減少した[4]。大江町には最盛期で200戸余りの製紙所があったが、昭和40年代以降、大江町二俣にある田中製紙工業所のみが和紙をつくり続けている[1][3][4][5]。
