丹羽瀬騒動

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丹羽瀬騒動(にわせそうどう)は、江戸時代末期に美濃国岩村藩主が松平乗美の代に勃発したお家騒動。岩村騒動とも呼ばれる。

岩村藩の財政窮乏

岩村藩は松平乗賢が幕府の老中となった際に、美濃国中西部と駿河国の中から計1万石の加増を受けて3万石となった。

その後も、老中・若年寄大坂城代等の要職に就いて、郡上一揆飛騨高山大原騒動等の時には鎮圧のために出兵し、朝鮮通信使が来朝の時には饗応役に当たるなどして出費が多く藩財政は非常に苦しい状態となった。

岩村藩の藩政改革の端緒は、文政6年(1823年)の松平乗保の代から既に始まったと言える。この時に領民心得三十二ヶ条を示して、空き地利用・夜なべ仕事・倹約等を岩村藩領の村々に達して遵守方を申し合わせている。

文政9年(1826年)6月、江戸城の西の丸の中老職を務めていた乗保が逝去し、その次男の松平乗美が藩主に就任したが、藩財政が窮乏し逼迫していた。

乗美が藩主に就任した時の家督披露宴費などの捻出のこともあり、ひいては藩財政の根本的な改革をも考えて、9月に乗美は父の代から執政(家老)である丹羽瀬清左衛門を筆頭家老に取り立てて知行借上、倹約、新田開発、荒地の開発、桐・桑・杉・茶・栗などの苗の育成と国産所の設置などの財政改革を中心とした藩政改革に着手した。

この改革は効果が大きく、藩財政は再建されたが、その施策の一つである二十七会講は、領内各村から村高などに応じた掛金を強制的に拠出させる無尽講であり、百姓にとっては大きな負担となった。

丹羽瀬清左衛門について

丹羽瀬家は、佐藤・澤井・小菅・大野・黒岩・森・味岡氏らとともに、代々家老職の家柄で、清左衛門は太田錦城林述斎に学び、熊沢蕃山の学風を慕って成人した。

文政10年(1827年)、筆頭家老に任じられ、10月に江戸藩邸から岩村藩役所に派遣されて、藩費2,000両の調達に成功し、村役人の心得の他、領民心得17ヶ条を達した。

丹羽瀬は格庵と号し、厳格で曲がったことは大嫌い、意志の強い剛直の士で、寛容さに欠ける性格であった。質素倹約と殖産興業を柱に藩政改革を推進した。

改革の第一として、藩役人から百姓・町人達まで、人の踏むべき道と法度をよく守り、質素倹約を旨として、よく仕事に励めという精神面での指導に力を入れた。

文政13年(1830年)5月には、元禄年間に大給松平家が岩村藩に入部した時に領民に布告した法度を改めて各村に配布したり、幕府の百姓に対する基本的な教えと言える慶安御触書を改めて版をして配ったり、徳川吉宗による治民の書である六諭衍義大意も版にして配るなどを行い、6月には國産之儀に付 心得方申談存意書(國産意見書)を出して藩財政改革のための国産事業・諸産業振興に対する領民心得の柱とした。

そして役人には厳正な執務をさせると共に、百姓達には髪は藁で結え、正月に門松は建てるな、白い飯は食うな、という厳しい倹約を強いた。

次に改革の大きな仕事は、農業・工業等の産業振興の仕事であった。国産所[1]を城下の大将陣に設け、国産方役人を命じ、富裕で有力な町人にも協力させて、農工振興にあたらせた。桑を植えて蚕を飼わせ、糸を取って絹織物を織らせた。棉の新品種を栽培させた。こうぞ茶[2]等も植えさせた。補助を出して植林を奨励した。陶器の生産を勧める等、新しい仕事を勧めると共に、国産所に窯を築き、織物工場を設けて陶器や絹織物の生産を行った。陶器や絹織物の生産は、長い伝統や、たゆまぬ技術改革を続けて行かなくては難しいのに突然生産を始めても良い製品ができるはずもなく国産所の製品を他藩へ出しても商品として通用する品物は、なかなか多量には造ることができなかった。

考え方は正論であったが、その実情に合わない理想論を厳しく押し付けていったので、百姓や職人はもとより村役人や藩役人の気持ちも離れていった。 当時、岩村藩の財政と同様に領内の村々も困窮しており、郷蔵の貯籾は困窮の百姓に貸し出され、秋の収穫と共に返納される決まりであったが、返納することができない窮民もあるので、実際は全部が返納されてはいなかった。そのため上役人が検査に来た時には、糠俵を積んでその目を逃れるようなことも度々あった。 

文政の阿木騒動

文政11年(1828年)12月、恵那郡阿木村中津川市阿木)の農民たちが字田中の若王神社に集まり、掛金拠出の1年繰延べを協議したところ、これが藩から「徒党」とみなされ、文政12年(1829年)2月5日夜、庄屋・兼三郎らが捕縛されて岩村城下に連行された。

その後も年貢未納を理由に多数の農民が代官所に召喚されて取調べを受け、手錠、押込めなどの処分が申し渡されている。

文政12年(1829年)、この「文政の阿木騒動」の過程において、代官でありながらも、その俵を知りながら見逃していた橋本祐三郎が厳しく責任を問われたのは、丹羽瀬が改革を始めてから3年目であった。

阿木村を含む上郷の代官であった橋本祐三郎が、詳しい事情は不明ながら公金取扱上の不正を疑われて岩村商人3人とともに捕らえられ、家禄・苗字帯刀を剥奪の上で斬首された。

橋本祐三郎については、凶作に苦しむ農民に同情し、郷蔵に納めるべき年貢の延納を認める一方、帳簿を操作して年貢が既に納付されたように見せかけたことが発覚して斬首に処せられたとも伝えられ、地元では「愛民代官」として語り継がれている。

橋本祐三郎の首級は恵那郡富田村大円寺(恵那市岩村町富田大円寺)の庄屋・神谷宗右衛門に下げ渡され、大円寺の黒地山に葬られたが、今でも山の奥まった場所に正面・左側面・右側面にそれぞれ「祐山逸道居士」「正意墓」「文政十二己丑歳五月三日」と刻む墓碑がひっそりと建っている。毎年5月3日、大円寺地区の住民によって祐三郎祭りが行われている。

丹羽瀬が作成した存意書

文政の阿木騒動後、文政13年(1830年)6月には、丹羽瀬はこの国産振興についての考え方と改革の根本と抱負をを23ヶ条にわたって細かく記し、国産の儀に付 心得方申談存意書と題し、広く関係者に配布して、その趣旨を徹底しようとした。[3]にまとめた。

23ヶ条から成るこの存意書は、国産の第一を、

一歩の場所にても 新田開発 荒地起かえり候様に至し候儀 専要に候

と、新奇の作物を好むことなく、稲作中心の農業を基本とし、

士農工商四つの民 銘々の職分を励候は 決して人の為にてはこれ無く 皆銘々の益にて 皆その身に益あることは 捨ておき 朝寝昼休みに 多くのひまを費し 一日に半時の怠りは 一年に一箇月の損ということさえ 心附申さずは 余りに歎かわしき事に候

と、その職分を全力で勤めることとしている。

また、食物となる草根木皮や薬種、それに衣類などは岩村藩領内の産品を用い、余剰の品物は売出するように勧め、領内にて必需品を購い使用することを奨励している。この他に、農村では荒地の開発や空地の植林を励め、絹、木綿織物の織り方や売却の方法までも示している。

同年、丹羽瀬は『六諭衍義大意』といわゆる『慶安御触書』とを木版刷りにして領民に配布し、なお一層の綱紀粛正を図るものの、その厳しすぎる改革姿勢は領民達は反感を募らせた。

天保4年(1833年)からの天保の大飢饉による被害や、天保5年(1834年)に発生した江戸藩邸の類焼、さらに改革で生産した木綿や絹織物が生産過多で逆に売捌けなくなったり、改革を担っていた問屋や庄屋がそのために藩から出奔してしまうなどの事情もあって、改革は停滞した。しかも、この改革は領民に対する負担も大きかった。

天保7年(1836年)の凶作は、天明の大飢饉に匹敵する全国的な大凶作で、村々の郷蔵はいづれも空になり拝借金2,650両と拝借米4,000俵で百姓達は、特に貧しい者は囲米や囲麦を貰って飢えを凌いだ。

飢扶持米の支給と拝借米金をめぐり、丹羽瀬と在地の郡方役人との扶持米取扱い不一致が、農民の蹶起を促し、この騒動の直接の引き金となったのは、凶作という不測の事態に対する岩村松平家側の対応の不明確なところにあったが、底流には丹羽瀬が進めた改革の様々な負担に対する不満があった。

当時、国産所の赤字は4万4千両もの巨額に達しており、森六左衛門・木村孫八・浅見輿郎・松田得兵衛・堀井作助・林九平・中嶋小左衛門などの国産所取扱いの担当者は、丹羽瀬の厳しい責任追及にあって次々に出奔し、経営は全く不能に陥っていた。一方、囲米や囲麦の施し方や貸付米金の小前への貸し付け方等に厳しい吟味をして呼び集めた村役人には返納の目途についても厳しく問い質した。拝借の米・金は、御救いとして貰うつもりでいた村役人にとっては、この厳しい返納催促は心外であった。その上、村々の郷蔵内容が帳面にと違っていることを理由に村の取帳を差し出させて、その内容まで調べようとした。取帳は村方の締め括り帳で、内々の事も記してあるので、役人に見せたことは今まで無かったので、受け取った村々では、全く理不尽な言い付けであるとして止むを得ず差し出したものの、時あたかも田植時にかかっており、農繁を理由に取り調べには応じなかった。ここに至って遂に百姓達の怒りは爆発した。

丹羽瀬を弾劾する書状の提出

天保8年(1837年)5月17日、恵那郡・土岐郡の岩村藩領52か村の代表らは21か条にわたって丹羽瀬を弾劾する書状には不顧恐無余儀次第御願之事・文政七甲申年御改革以来村方難渋之次第二十一ヶ条と記されており、農民らは松平家が財政再建に向かった文政7年(1824年)を難渋の始めとしている。

項目の主なものを見ると、

  • 月々の人別改
  • 村々の大工は江戸在番を仰せ付けられて迷惑している。
  • 人別改や諸届書式が煩雑で手間がかかり、一々些細な文書の訂正のために岩村藩役所へ呼び出されるため、費用がかさみ難儀である。
  • 植林の検査の厳しさ
  • 農繁期における苗木の植付の厳しい報告や見分役人の出役もあって迷惑をしている。
  • 検見の際に、検見穂を田毎に三尺巾一文字に残すことを命じ、検見終了後にに刈取りしていては手間がかかる一方、麦の蒔付けもできず、また鳥が集まり迷惑している。
  • 文政11年(1828年)から始められた御救無尽は却って利息が重み百姓の困窮の原因の元になっている。
  • 村々の葺師は運上金を取られるため難渋している。
  • 土佐錦と黄花の両品種は土地に合わないから中止したい。
  • 天保元年(1829年)より他村と諸事談合の機会を与えるためとする庄屋廻村は、雑費が多く迷惑であり、以後廃止を願いたい。

その他、奨励して作らせた棉の不出来さ、陶器や織物を造らせても、上級品だけを買い上げて残った品物については生産者任せという勝手なやり方、殿様無尽金の度重なる取立等を数え上げている。このやり方に百姓が立腹していたところに、村々の取帳まで差し出せとの仰せに、我慢しきれなくなったと述べている。

特に次の4項目をあげている。

六ヶ年以前は 産物取扱中より 下郷十二ヶ村へ 木棉 月々織出候様割付に相成 外へ商い候とは違ひ 尺も巾も揃ひ不申候ては納不申 其上定直談に候に付 損分相掛り候て 迷惑仕候間 以後御止め被成下様 仕度候事
産物焼物 種々心見焼被仰付 少々宛焼上ヶ 御役所へ持参り候て御覧に入れ 御意に叶候得ば 御買上に相成 御意に不叶候節は 差戻しに相成候品は 外へは捌不申御買上に相成候品も 後続き焼上候儀無之 御心見被成候てのみにて 其度々かま仕替の義故 雑費多く 相掛候て 難渋仕候事
焼物商人へ売払ひ候得は 無疵底物共 平均に致し 引合仕候得共 産物方へ差上候 直段は 右商人へ払候 直段同様にて 底物斗り残り 外へ捌候節 一向直段下直に相成 多分の損失にて迷惑仕候事
産物方より 日限りにて御注文有之 難渋之旨 申上候處も やいがまにて焼可申旨被仰聞 左様仕來候處 折能出来合候品 無之節 御注文之品斗 少々詰め 一かまに焼候て差上候間 多分 雑用相掛り職人等 潰に及び候者共出來 当惑至極仕候事

と述べ、産物新法による村々の無駄と窮迫の激化とを訴えた。そして最後に

右申上候通り 近年御産物等 新法被仰出候に付 御領分村々入用相嵩み 因窮彌増候間 清左衛門様 御役御勤被遊候ては 下方一統気服不仕 殊に於 御尊所に 夫々御役人様も御座候處 御差置 御自身様御進出 一々御理解被仰聞候付 我等共に於ても 重々奉恐入候間 何卒 清左衛門様 一刻も早く御押込 被仰付不被下置候ては 小前一統気分相立居 銘々手頃之品並 兵粮之用意罷在候間 迚も治まり不申 万一 右之段不相叶候節は 村々御百姓共一同相揃 御同人様申請に岩村御所へ罷出申候

と強い口調で述べ、丹羽瀬の処分、身柄引き渡しを強く求めた。藩政改革が領民に直接関わる問題であっただけに領民の窮状嘆願は熾烈を極めるものとなった。

昨年の不作では他領では年貢の引き下げや御救米などもあったのに拝借米金の返納を迫る丹羽瀬家老のやり方には、一同何としても承服できない旨を述べて施政の変更と丹羽瀬の対陣を要求した。

この一札差出の時に、村役人たちは内密に連印して、もし聞き入られない場合には丹羽瀬宅に押し寄せて乱暴に及ぶこと。もし一人でも牢に入れられた時には、村々から罷り出てお詫びをし、お許しが無い場合には牢を打ち破っても救い出すこと。一村が取り調べとなった場合には全村(52ヶ村)が、岩村藩役所へ押しかけること。費用は幾らかかっても2万石高割のこと。この度の事は決して変心したり他言したりしないことを申し合わせて内部の結束を固めた。まさに一揆の申し合わせであった。

乗美が要求を受け入れなければ、めいめいが手頃な品や食料を用意しているから、村々の百姓達が打ち揃って丹羽瀬の身柄を申し受けに岩村藩役所へ罷り出るというものであった。歎願書を受理した郡奉行は、それを家老の大野五左衛門に提出。大野は直ちに急便を立てて江戸藩邸に報告した。藩主の乗美は直ちに丹羽瀬に蟄居を命じる一方、領民の歎願をほぼ全面的に承認するとともに丹羽瀬が実施した新法を廃止することを岩村藩役所へ伝えた。このため、家老の大野五左衛門の仲介により、から「清左衛門様一刻も早く御押込被仰付」を要求されるに及び、領内52か村からの要求を受け入れて藩主の乗美は丹羽瀬を蟄居を命ぜられて失脚した。

岩村藩領に隣接する幕府領であった土岐郡小田村本荘氏日記には以下の様に記されている。

岩村領 惣百姓 檄文を廻し置き、家老 丹羽瀬清左衛門殿を貰受け、竹槍にて突殺すまでと 恵那郡村々は武並の森へ寄合い、土岐郡村々は櫻堂の藥師堂へ いづれも蓑笠に竹槍を携へて寄集り、前代未聞の大騒動なり。右の趣 御聴に達し 外の御家老方 諸役人 御心配なされ、「丹羽瀬殿を遣わすことは出来難く候得ども、其の他の願の筋は聞届け遣すべく候間、ひとまず帰村し 御百姓出精致し呉れ候よう」 との御説諭にて一同引取り相治り申し候、依て 丹羽瀬清左衛門殿は蟄居隠居仰せ付け候

この厳しい願書を突き付けられた岩村藩役所は、年寄家老の大野五左衛門は、村々が騒ぎ立てては一大事であると、飯羽間村と岩村の境にある塔ヶ根まで押し寄せた近郷の百姓達に対して大野五左衛門の身に代えても願の筋が通るように引き受けるからと伝えて引き取らせ、日頃、百姓達と接して困窮の実情がよく分かっていた山水奉行の大山傳八郎をはじめ中級武士たちの強い支持による決定であった。そして願書を早飛脚で江戸藩邸へ送るような評議を一決させた。

これに対して丹羽瀬支持派の河合宗左衛門黒岩助左衛門は、村々役人の主導者と目される飯沼村彌兵ェ馬場山田村善六串原村長六柿野村理兵衛の4人を夜中に秘かに呼んで、丹羽瀬の退役と21ヶ条の願いの趣旨は引き受けるから、一揆がましいことにはならぬように小前の者を抑えてほしいと頼んだ。4人は他の役人達とも相談のうえでと引き受け、5月27日に馬場山田村の盛久寺で村役人の総寄合を行い、河合宗左衛門が引き受けてくれるなら任せることに決まった。

5月28日には、岩村を始めとして富田村佐々良木村等の村役人を白洲へ呼び、丹羽瀬自身が口上と書面によって、村人の為に悪いようにしようとする考えは毛頭なかったと告げ、皆々が安心するように取り計らうと約束した。また他の役人達も自分達の処置の誤りで丹羽瀬の責任ではないと弁明し、この旨を領内全部の村々へ伝達してくれるように頼んだ。

6月2日になると総役人を呼び出して拝借米金の返納は追ての事にする故、心配せずに農事に励むように諭し、河合宗左衛門・黒岩助左衛門の両家老も自分達の不行届きであって丹羽瀬の責任ではないと言い訳に努めた。丹羽瀬派の河合宗左衛門・黒岩助左衛門の両家老はこうして百姓達を宥める一方、大野五左衛門・大山傳八郎が百姓の後押しをして騒動を起こさせたのだと言いふらし、大野五左衛門・大山傳八郎を押し込め、反丹羽瀬派の者達を次々に退けて丹羽瀬派の勢力維持を図った。そのため願書の江戸藩邸への差し上げ等は到底実現できない状況となった。

百姓達の決起

6月6日、この情勢に業を煮やした下郷[4]では、兵糧の準備をして竹槍を持って300余人が桜堂薬師に集まって来たので神篦村の御用達の伊藤重次は、岩村藩役所に注進した。そこで代官の加藤勇治・手代・下目付らが状況の視察に来た。

東野村では百姓達が、岩村藩の御年寄衆、ならびに郡奉行から出された書付を見て、百姓達が激高し「かような書付で騙されるか」と引破ったということが伝わり、岩村藩役所から中村玄三郎が状況の視察に来た。

また中野村や東野村などの上郷[5]でも百姓達が追々集まりだして、岩村周辺でもいつでも蜂起することができるように準備を始めた。これらの状況は逐一、岩村藩役所に伝えられ、これを聞いた岩村藩の役人は急いで出向いて宥めにかかったが、押さえることができる情勢ではなかった。周辺の尾張藩苗木藩明知遠山氏明知陣屋でも警備と情報の察知に乗り出した。

6月7日、これに驚いた河合宗左衛門・黒岩助左衛門の両家老は、村役人たちを河合宅に召し集め、差し出した願書の儀は趣は聞き届けるし、丹羽瀬も隠居願いを出したから、百姓達を鎮めてくれると頼んだ。村役人達も評議の末に一応静まって成り行きを見ることにした。しかし丹羽瀬は、なお退役はしないと言っており、それを支持する石寺十左衛門等もあった。

反丹羽瀬派藩士の決起

6月11日、ここに至って遂に反丹羽瀬派の藩士達も怒り出し、81名の者が岩村城下の乗政寺に集まって激論の末、丹羽瀬の逼塞、中老の石寺十左衛門の隠居、事件処理のために大野五左衛門の江戸藩邸への出府の3ヶ条を決定した。藩士達はこの決定事項を河合宗左衛門宅に持ち込み、聞き届けなければ帰りませんと座り込んだ。

6月14日の夜、遂に岩村藩が丹羽瀬の逼塞、中老の石寺十左衛門の引退を決定し、大野五左衛門と田中孫大夫らに前後策を講じさせた。

6月15日、大野五左衛門と田中孫太夫は百姓達の願書と藩士達の要望書を携えて岩村藩の江戸藩邸に向けて出発し、藩主の松平乗美に相談し事後処理の方策を得て、7月9日に岩村藩役所へ戻り、7月10日には責任者の処分が発表された。

丹羽瀬は役儀を召し上げられて蟄居。中老の石寺十左衛門は御役御免。吉田紋治郎は閉門御免。加藤雄介は御役御免。各村の村役人達は、騒動を未然に防ぎきれなかったということで7月11日から3日間の閉門となったが、百姓は1人の処分者は出なかった。

百姓達が願い出た「不顧恐無余儀次第御願之事・文政七甲申年御改革以来村方難渋之次第二十一ヶ条」についての苦情の条々毎に、10月になって郡奉行から代官へ「御国産事業の一時停止と前後策協議」等の回答が書面で通知されて領民も納得し、11月には岩村藩領内の90歳以上の者の調査がなされ、御米2俵づつが祝いとして贈られるなどの領民の人心拾収策も講じられ、その後半年程でこの騒動は完全に終息した。

天保10年(1839年)2月4日、丹羽瀬は憂憤のうちに51歳で世を去った。藩政改革も正式に中止となった。以後、岩村藩の藩財政はさらに悪化していくこととなった。

天保の大飢饉の際の一揆は大塩平八郎の乱を始めとして全国各地で発生した。丹羽瀬騒動もその内の一つであったが、百姓の困窮状態は必死難渋というところまでは追い込まれておらず、一揆となる手前で終息した。終息した原因はふだん百姓達と接触があった中級武士達の働きによるもので、中級武士達が一揆を起こそうとしていた百姓達の後押しをして丹羽瀬の追い落としを行ったことである。

丹羽瀬に対する後日評価

この様に、地の利・人の和・時の運を得ずして失敗した丹羽瀬の改革であったが、丹羽瀬が記した国産意見書は実に立派な内容であり、百姓達による「不顧恐無余儀次第御願之事・文政七甲申年御改革以来村方難渋之次第二十一ヶ条」に見られる藩政改革の内容を見てもその手腕、見識の程には感嘆させられる。

岩村城下町に新興産業を起こし国産品の奨励策を推進したり、騒動決着後も、心ある百姓らによって植林・植樹、空き地利用等は続行され、岩村藩領民の意識改革は他藩には見られないものであり大きく貢献した功は広く認められることである。かくして岩村藩の財政はいよいよ深刻さを増したがやがて激動の幕末へと突入した。

岩村町の乗政寺墓地の中に丹羽瀬の墓がある。また明治22年(1889年)、有志らによって建立された「格庵丹羽瀬先生紀功碑」が岩村の大将陣に残っている。

関連項目

参考文献

脚注

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