定府の長府藩医乃木傳庵の甥で対馬藩士の打它六千代と、伝庵の娘との長男として誕生。元禄15年(1702年)に傳庵の長男久太郎が、乃木家を出ると、父が傳庵養子となるに従い、乃木家に入る。
尾張藩主・徳川継友に300石で仕官して尾張藩士になる予定であったが、平野丹波の取り成し[1]で取りやめとなる。主君の匡敬が長州藩を相続するに伴い、これに御供して宝暦2年(1752年)10月20日に長府藩から長州藩に転出し、石高250石知行の上、御手廻組の藩医となる。
なお、この時は父は生存中(宝暦6年(1756年)に死去)で希和は家督を相続しておらず、長府藩の乃木家を出て、長州藩で新たに乃木家を創設することになる。長府藩の乃木家は弟の乃木隋陽が相続する。