久保孚
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1887年(明治20年)5月5日、父・義道と母・久米の長男として[1]高知県土佐郡大川筋[注釈 1]で生まれた。幼名は東洋士。1905年(明治38年)に高知県立第一中学校を卒業[2]、第三高等学校を経て東京帝国大学に進学。1912年(明治45年)7月[2]に同大学工科大学採鉱冶金学科[3]を卒業すると、すぐに南満洲鉄道に就職、撫順炭鉱の鉱務課に勤務した。
順調に昇進を続け、1932年(昭和7年)には撫順炭鉱長に着任[2]。炭鉱長となる直前(役職は次長)の同年9月に平頂山事件が発生する[4]。同年、研究論文『満洲撫順炭鉱ニ発達セル灑砂充填採掘法』により工学博士号を授与された[5]。久保の指揮のもと、撫順炭鉱からの採炭量は日本支配地域における石炭生産量の25パーセントに上り、『撫順の久保か、久保の撫順か』と表現されるほどその功績が評価された[6]。
1937年(昭和12年)6月[3]に南満州鉄道理事に就任するとともに、日満商事の取締役ともなった[7]。満鉄理事を退いた1941年(昭和16年)には、石炭生産の増加を期待され阜新炭鉱の社長に就任した[2]。
1945年(昭和20年)に満洲国が消滅した後、奉天においていったん国民政府によって拘束されるが後に釈放され、そのまま同地で国民政府から委託された調査を行っていた[8]。1947年(昭和22年)12月、国民政府は15年前の平頂山事件の裁判を行おうとしたが、事件当時の軍人は既に日本に引き揚げていたため、当地に残っていた久保などを逮捕、奉天第1監獄に収監した[4]。翌1948年(昭和23年)1月、国民政府が設置した軍事法廷において、久保を含む7名に対して事件の責任をもって有罪とし、死刑判決が下された[9][10]。当地に残留していた日本人から久保らの無実を訴える嘆願書が提出されたが判決は覆らず、久保の銃殺刑が同年4月19日に執行された[6]。久保は最後まで自身の無罪を主張したものの、執行を前に煙草を要望し、さらに自らの後頭部を手で指し「ここを撃ってくれ」と示したという[11]。
著書・研究論文
著書
研究論文
- 久保孚「撫順炭礦に發達せる灑砂充填採掘法」『日本鑛業會誌』第48巻第564号、1932年、363-406頁、doi:10.11508/shigentosozai1885.48.363。
- 久保孚「撫順炭礦に發達せる灑砂充填採掘法(2)」『日本鑛業會誌』第48巻第565号、1932年、514-540頁、doi:10.11508/shigentosozai1885.48.514。