久我通忠

鎌倉時代中期の廷臣、歌人、公卿。久我通光の次男。正二位・大納言右近衛大将。勅撰集『続後撰和歌集』以下に7首入集。久我家7代。子に忠勝。 From Wikipedia, the free encyclopedia

久我 通忠(こが みちただ)は、鎌倉時代中期の公卿太政大臣久我通光の次男。官位は正二位大納言右近衛大将久我右大将と号す。久我家7代。

時代 鎌倉時代中期
生誕 建保4年(1216年
別名 久我右大将[1]、中院大納言[2]、土御門中納言[3]
概要 凡例久我通忠, 時代 ...
 
久我通忠
時代 鎌倉時代中期
生誕 建保4年(1216年
死没 建長2年12月24日1251年1月17日
別名 久我右大将[1]、中院大納言[2]、土御門中納言[3]
官位 正二位大納言右近衛大将
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇
氏族 村上源氏中院流久我家
父母 父:久我通光、母:督典侍(藤原範光の娘)
兄弟 通平通忠、宣通、通能、中院雅光、源雅忠、六条通有、道朝、式乾門院御匣雅成親王
唐橋通時または北条義時の娘、平光盛の娘、家女房
通基久我具房親玄、忠勝
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経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って。

久我家所領争いに直面する

父通光が後室として三条(西蓮)を迎え、所領を三条に任せる旨の置文を残したため、所領争いに直面する事になった。通忠の母は藤原範光の娘・督典侍は、通光の生母・藤原範子の姪にあたるため、祖父・源通親の指示に基づく婚姻関係だと推測できる。雅光の生母が三条だとすると、承久の乱後に通光は我意によって三条を後室として迎えた可能性が高い。そうした中で通忠は継母との争いをする事になり、同時に通親の子らが順次亡くなり、村上源氏一門の他家の進出にも直面する中で早世してしまうのである。

系譜

脚注

出典

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