久留島光通
日本の江戸時代中期~後期の大名
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略歴
2500石を領した旗本・久留島通貞(2代藩主・久留島通春の次男)の次男として誕生。初名は通綜。
世嗣だった久留島通重の死去により、正徳5年(1715年)4月27日、先代藩主・久留島通政の養嗣子となる。同年5月28日、7代将軍徳川家継にお目見えする。享保4年(1719年)12月25日、養父通政の死去に伴って家督を継いだ。享保5年12月18日、従五位下信濃守に叙任する。享保17年(1732年)、飢饉が藩内を襲うと、幕府より2000両を借用して対処した。その後、藩財政再建のため、上米制を中心とした藩政改革を行なった。駿府城番を命じられる。寛延3年(1751年)3月1日、大番頭に就任する。宝暦8年(1759年)11月18日、伏見奉行に就任する。