乙未改革
From Wikipedia, the free encyclopedia
1895年4月に日清戦争で日本が勝利したが、三国干渉の結果をみて、日本や親日派の朴泳孝に協力的な姿勢を示していた王妃の閔妃はロシア・アメリカに接近、朝鮮での日本の影響力が弱まり、閔妃を中心に親露派・親米派の勢力が増していった。やがて朴泳孝も日本に亡命し、日本の影響力の下で行われていた甲午改革は頓挫することとなった。しかし、10月8日(旧暦8月20日)に日本公使の三浦梧楼の策謀によって閔妃が殺害(乙未事変)されると、日本の武力的圧力の下、高宗ら王党派勢力は事実上棚上げにされ、金弘集内閣(第4次)は日本側方針への服従を強め、日本側の意向に沿った近代化改革を急進的な形で再開した[1]。断髪令、旧暦から太陽暦への変更、新しい年号「建陽」の制定、小学校の設立、郵便網の整備、種痘法の施行、軍制改革などが行われた[1]。
しかし、これらの急進的な改革、とりわけ断髪令は、民族の伝統である礼俗を否定するものとして守旧派両班層や民衆の激しい反発と抵抗を招いた。1895年11月頃、朝鮮中部では義兵闘争が起こり、翌年には朝鮮全土に波及した[1]。朝鮮の地方官や日本人は襲撃・殺害され、軍用電信線の切断など妨害活動が相次いだ[1][注釈 1]。
1896年2月11日には、国王の高宗がロシア公使館に保護を求めて逃げ込むことに成功(露館播遷)、高宗が内閣改造を行って金弘集らを罷免し逮捕命令を出すと、「国母復讐」を呼号する民衆らが金弘集と魚允中を襲撃して殺害、乙未改革は終った[1]。金允植は捕らえられて終身流刑に処せられた[1]。