九州派

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九州派(きゅうしゅうは)は、1950年代後半から1960年代前半にかけて福岡県を中心に活動した日本前衛美術グループである。読売アンデパンダン展や独自のアンデパンダン展、街頭展示などを通じて活動し、戦後日本美術における地方発の前衛集団の一つとして位置づけられる[1][2]

九州派の前史として重要なのが、1956年11月に福岡県庁西側大通りの壁面で行われた野外詩画展「ペルソナ展」である。この展示には石橋泰幸、黒木耀治、越智靖(オチオサム)、桜井孝身らの絵画作品と、福岡市在住の詩人たちの作品が出品され、翌年の九州派結成の母胎の一つになったとされる[3]

『美術手帖 ART WIKI』によれば、1956年11月の野外詩画展を契機として、菊畑茂久馬、山内重太郎、田部光子らの若手作家が加わり、1957年7月に「九州派」(別称「グループQ」)が誕生した[1]。以後、福岡を拠点に、身近な生活用品や多様な素材を用いた作品、街頭展示、アンデパンダン展の開催などを通じて活動した[1]

活動史

前史

1956年11月2日から4日にかけて、福岡県庁西側大通り壁面で「ペルソナ展」が開催された。この展示は九州派の前史に属するものとされ、九州派の美術集団としての特異な性格の予兆を示す出来事とみなされている[3]

結成と初期活動

1957年7月、桜井孝身、オチオサム、菊畑茂久馬、山内重太郎、田部光子らを含む作家たちによって九州派が成立したとされる[1]。同年、九州派は読売アンデパンダン展に参加し、福岡を拠点に街頭展示やグループ展を展開した[1]

全九州アンデパンダン展

公開されている年表資料とオーラル・ヒストリーによれば、第1回全九州アンデパンダン展は1960年6月5日から12日にかけて八幡市美術工芸館で開催された。この展覧会には針生一郎を招いたことも記録されている[4]

その後も九州派はアンデパンダン展やグループ展を継続し、福岡・北九州を中心に活動した。ただし、メンバー構成はたびたび変動しており、単一の固定的集団として把握することは難しい[1]

再編と転換

九州派は活動の過程で解散や再編を経験した。ART WIKI では、幾度かの解散・再編を経てメンバーが大きく入れ替わったことが指摘されている[1]

1962年には、百道海水浴場で「英雄たちの大集会」が行われた。この出来事は、九州派の活動の転換点として言及されることが多く、ART WIKI では、この頃以降に表現の軸足がパフォーマンスへ移ったと説明されている[1]

活動の特徴

九州派は、福岡を拠点に、身近な生活用品や多様な素材を用いながら、反公募展、反東京の姿勢を強く打ち出した前衛芸術家グループとして説明されている[1]。その活動には、街頭展示、屋外空間の使用、既成の絵画・彫刻観を揺さぶる素材選択などが含まれる[1]

千葉成夫は、九州派を、具体美術協会ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズなどと並ぶ戦後日本前衛の重要な一局面として論じている。千葉によれば、九州派は単なる地方的動向ではなく、日本の美術が中央の制度や外来の美術概念とずれながら展開したことを示す集団の一つであり、反芸術的な問題系を先取りする動向として位置づけうる[2]

読売アンデパンダン展との関係

九州派は読売アンデパンダン展を、中央の前衛美術と接続する重要な場として活用した[1]。一方で、同展を踏まえながらも、福岡・北九州という地域的文脈のなかで独自の前衛的実践を展開した点に特徴がある[2]

評価・再評価

九州派は長らく、戦後日本前衛美術史のなかで十分に顧みられてこなかったが、近年では東京中心の美術史記述を相対化する文脈のなかで再評価が進んでいる[5]

また、千葉成夫は九州派を、戦後日本前衛美術の中心的潮流を地方から捉え直すうえで重要な集団の一つとして位置づけている[2]

主な関係作家

九州派に関わった作家としては、次のような人物が挙げられる[1]

脚注

参考文献

関連項目

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