反芸術
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反芸術(はんげいじゅつ、英: anti-art)は、既存の芸術観や美術制度、作品概念を批判的に問い直し、それらを変質させるような表現傾向、思想、作品群を指す語である[1]。広義には、20世紀前半のダダイスムに始まる、美術の伝統的価値の破壊を試みる動向を含み、1950年代半ばから1960年代半ばにかけては、ネオダダやヌーヴォー・レアリスム、日本の九州派、ゼロ次元、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、ハイレッド・センターなどを指して用いられた[1]。
日本において「反芸術」という語が広く流通する契機となったのは、1960年前後の読売アンデパンダン展であった[2][1]。とくに、評論家の東野芳明が1960年の第12回展に対する批評のなかで工藤哲巳らの作品を「ガラクタの反芸術」と呼んだことは、この語の定着に大きな役割を果たした[1]。ただし、この呼称は東野の意図を離れて、「反芸術=ヒステリックな反抗」といった否定的な含意を伴って流布した側面もあった[1]。
ダダイスムとマルセル・デュシャン
1950年代以後の展開
第二次世界大戦後、反芸術的な傾向は各地で再び顕著になった[1]。1950年代半ばから1960年代半ばにかけて、アメリカではネオダダ、フランスではヌーヴォー・レアリスムが代表的な動向とされ、日用品、印刷物、がらくた、廃物などを用いて、既存の美術表現から逸脱しつつも新たな芸術の創出が試みられた[1]。
また、日本ではこの時期に「反芸術パフォーマンス」と呼ばれる身体表現の流れも生まれた[5]。これは1957年から1970年頃までに美術家によって行われた、「反芸術」の系譜に連なる身体的実践として整理している[5]。
日本における反芸術
日本における「反芸術」は、1960年前後の現代美術の急進化と密接に関わる[1][2]。その背景には、戦後日本美術が新しい表現概念を模索してきた過程があり、その前史として1950年代半ばの具体美術協会などの前衛的実践がしばしば重視される。もっとも、具体をそのまま反芸術と同一視することはできない[1]。
読売アンデパンダン展との関係
日本における「反芸術」は、1960年前後の読売アンデパンダン展を直接の舞台として広く流通した[2][1]。1949年に始まり1964年に中止された読売アンデパンダン展は、無審査・自由出品を原則とする発表の場として、多くの前衛作家にとって重要な舞台となった[2]。既成の画壇や団体展から相対的に自由であったこの展覧会では、絵画や彫刻の枠に収まらないオブジェ、廃物利用、行為的・事件的な表現が次第に増加し、1950年代末から1960年代初頭にかけて、戦後日本美術の急進的実験の集積点となった[2][1]。
日本で「反芸術」という語が一般化したのは、1960年の第12回読売アンデパンダン展に対する批評のなかで、東野芳明が工藤哲巳らの作品をガラクタの反芸術と呼んだことによる[1]。artscape によれば、東野は、絵画や彫刻の概念から見れば異質な素材を持ち込む傾向を「ヒステリックな反抗」とだけは見ず、そのなかから自然に現れてくる新しい表現の可能性を見ようとした[1]。ただし、この語はやがて東野の意図を離れ、急進的・破壊的・無秩序な表現全般を指す、やや否定的な意味合いとしても広まることになった[1]。
主な動向と作家集団
日本における反芸術の代表的動向としては、九州派、ゼロ次元、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、ハイレッド・センターなどが挙げられる[1]。
九州派は1957年に福岡を拠点として結成された前衛美術集団で、当初のアンフォルメル的傾向から、しだいに反芸術的なオブジェや行為へ展開した[6]。作品の素材選択、共同制作、政治性の強さを特徴としており、日本における反芸術の前史として重要な位置を占めた[6][5]。
ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズは1960年に東京で結成された前衛芸術グループで、廃物の使用、即興的な街頭パフォーマンス、過激なアクションなどによって、読売アンデパンダン展末期のアナーキーな反芸術傾向を代表する存在となった[7]。後日においては、読売アンデパンダン展の「反芸術」傾向の代表的動向の一つと位置づけられる[7]。
ゼロ次元は1963年から1972年まで活動したグループで、「人間の行為をゼロに導く」という理念のもと、裸体、儀式、都市空間での集団行動など、強い身体性と祝祭性を備えたパフォーマンスを展開した[8]。その過激さゆえに当時の美術界では正当に評価されにくかったが、近年は研究の進展によって、戦後日本前衛美術史の重要な一角として再評価が進んでいる[8]。
ハイレッド・センターは、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之を中心に1963年に結成された匿名集団である[9]。彼らは、即興的な破壊衝動よりも、むしろ冷静に設計された疑似公共的イベントや介入行為を通じて、社会と芸術の境界をずらした点に特徴がある[9]。街頭での「首都圏清掃整理促進運動」や、公共空間への直接行動を通じて、社会の側を観察し検証すること自体を芸術活動と評価されている[9]。
身体表現への展開
日本の反芸術は、オブジェやインスタレーション的展示にとどまらず、しだいに身体表現へも展開した[5]。「反芸術パフォーマンス」は1957年から1970年頃までに美術家によって行われた、「反芸術」の流れを汲む身体表現を指す語であり、その軌跡は九州派を前史とし、読売アンデパンダン展で育まれたのち、路上へ展開し、ゼロ次元や糸井貫二らの実践へ至ったとされる[5]。ここでは、裸体や生理現象の露出、儀式的暴力性の強調、都市空間の攪乱など、おぞましさや野卑さをともなう表現も少なくなかった[5]。そのため、週刊誌やテレビでセンセーショナルに扱われる一方、美術ジャーナリズムからは長らく敬遠されてきたが、今日では現代アートにおける身体表現の歴史的起点の一つとして見直されている[5][8]。
制度との衝突と終焉
読売アンデパンダン展における反芸術的表現の先鋭化は、やがて制度との摩擦を強めた。東京都美術館は1962年12月に「都美陳列作品規格基準要綱」を制定し、「反芸術」的傾向を持つ作品群への規制を強めた[10]。こうした経緯もあり、1964年の読売アンデパンダン展は中止され、第15回展をもって終了した[10][2]。
読売アンデパンダン展の終焉を受けて、東野芳明は1964年の論考「さようなら読売アンデパンダン展」において、同展を戦後日本美術の基礎を築いた重要な展覧会と位置づける一方、旧来の団体展に対抗して「反体制」と「自由」を掲げたその歴史的使命は、ある意味で果たし終えたとも論じた[11][10]。APJの解説によれば、東野は同論考の後半で東京都美術館の規定をめぐる議論を批判しつつ、マルセル・デュシャンが1917年に《泉》をニューヨークのアンデパンダン展に出品した行為を、表現の自由の擁護であると同時に芸術論としても高く評価していた[10]。
また、1963年から1970年にかけて続いた千円札裁判は、赤瀬川原平による模型千円札をめぐって、芸術表現と法制度が正面から衝突した事例として重要である[12]。美術史においてこの裁判は、事件性それ自体よりも、法廷において「芸術とは何か」をめぐる言説空間が膨れ上がった点が特筆される[12]。
反芸術論争
1964年には、公開討論会「反芸術、是か非か」を背景として、宮川淳と東野芳明のあいだで「反芸術論争」が展開された[13][14]。この論争は、単に「反芸術」という語の意味をめぐる応酬ではなく、戦後日本美術における前衛芸術を、どのような批評概念で把握すべきかをめぐる対立でもあった[13][14]。
発端となったのは、宮川が『美術手帖』1964年4月号に発表した「反芸術—その日常性への下降」であった[13][14]。宮川はそこで、東野が反芸術を戦後抽象絵画の果てに現れたものとみなす議論は、抽象と具象の二元論にとどまっていると批判し、反芸術の核心は「日常性への下降」によって表現の条件そのものが問い直される点にあると主張した[13][14][15]。宮川にとって反芸術は、単なる挑発や否定ではなく、現代における表現の様式的具体性を示すものだった[13][15]。
これに対して東野は、『美術手帖』1964年5月号の「異説・『反芸術』—宮川淳以後」で反論し、反芸術は表現過程の自立の延長にあるのではなく、その自立そのものを掘り崩し、変質させる契機を含むものだと述べた[13][14]。さらに東野は、マルセル・デュシャンの沈黙と不制作に、反芸術の根底的な姿を見ようとした[13][14]。
環境芸術への転回
1960年代後半には、日本の美術評論において、「反芸術」論争や千円札裁判を契機に前衛芸術の行方が問われる中、新しい工業素材やメディアを用いる合理的で領域横断的な表現に注目が集まり、「環境」という概念を橋渡しとしてマーシャル・マクルーハンが広く受容されるようになった[16]。飯田豊によれば、この動向は東野芳明、宮川淳、中原佑介、日向あき子ら若い美術評論家によって先導され、大阪万博の準備期間と重なりながら「環境芸術論」として展開した[16]。
飯田は、1963年を最後に中止に追い込まれた読売アンデパンダン展に代表される破壊的で無軌道的な前衛芸術への反省から、1960年代半ばには、新しい工業素材やテクノロジーを駆使した合理的で先進的な未来芸術の可能性が希求される風潮が現れたと述べている[16]。
その具体的な節目の一つが、1966年11月に銀座松屋で開催された「空間から環境へ」展である[17]。辻泰岳によれば、この展覧会は副題を「絵画+彫刻+写真+デザイン+建築+音楽の総合展」とし、従来のジャンル区分を越える総合的な展示として構想された[17]。辻はまた、この展覧会がエンバイラメントの会を中心に準備され、「対応」「仕掛」「体験」という三つの主題によって「環境」を提示しようとしたことを指摘している[17]。
さらに辻によれば、この展覧会は、国内では「コマーシャル・アート」や「グッド・デザイン」に対抗しつつ、国外ではフルクサスやE.A.T.のようなインターメディア的動向とも接点を持つものであった[17]。この点で「空間から環境へ」展は、読売アンデパンダン展後の日本美術において、破壊的前衛から環境芸術・インターメディア的展開へ向かう転換点の一つとみなすことができる[17][16]。
また、伊村靖子は、1964年の「反芸術」シンポジウム以後、1966年の「色彩と空間」展を経て、同年の「空間から環境へ」展、さらに大阪万博と関係の深い環境芸術へと連なる流れを指摘している[18]。また、美術手帖の回顧記事によれば、「空間から環境へ」展は38名が参加し、約3万5000人を集めた展覧会であり、作品そのものよりも、鑑賞者を含み込む「環境」の形成が強く意識されていた[19]。
また飯田によれば、1967年の『美術手帖』特集「マクルーハン理論と現代芸術」では、日向あき子が基調論文を執筆し、東野芳明、宮川淳、後藤和彦らがマクルーハン関連書を解題しており、芸術分野におけるマクルーハン受容の重要な節目となった[16]。同論文はさらに、宮川が『メディアはマッサージである』の解題において、環境を受動的な包みではなくアクティブなプロセスとして捉え、芸術家を新しい環境を可視化する存在とみなしていたことを紹介している[16]。
飯田はまた、東野が命名した「反芸術」と宮川の「日常性への下降」が、マクルーハンのいう「環境/反環境」と通底すると論じている[16]。ただし、これは飯田による解釈であり、反芸術概念そのものの一般的定義としてではなく、1960年代後半の批評的読解の一つとして位置づける必要がある。
このように、反芸術は1964年前後の読売アンデパンダン展や反芸術論争をもって終息したというよりも、その後、環境芸術や大阪万博をめぐる言説のなかで、別のかたちへ組み替えられつつ継承された側面もあった[16]。
