二卿事件
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計画
かつて廷臣二十二卿列参事件にも加わったことのある愛宕通旭は、このころ明治政府の参与を免ぜられて京都に引き籠っていた。愛宕は、新政府の実権を握った薩長の下級武士らによって「天皇の藩屏」であった公卿が政治の中枢から切り離されていくことに苛立ちを感じていた。家臣の比喜多源二・安木劉太郎らはこれに同情し、新政府を倒して明治天皇を京都へ連れ帰り、攘夷を断行するべきであると進言した。弾正台で横井小楠暗殺事件の捜査を担当しながら逆に横井を糾弾しようとしたことで知られる古賀十郎とその友人である秋田藩の中村恕助は、比喜多によって仲間に招き入れられると、天皇と主だった公卿が東京にいる以上、まず東京で事を起こさなければ意味がないと説いた。これに同意した愛宕は、明治4年1月28日(1871年3月18日)に比喜多・安木らを連れて京都を発ち、2月4日(3月24日)に東京に入る。愛宕主従は、古賀・中村に誘われた秋田・久留米藩士や土佐の堀内誠之進らと謀議を重ね、秋田藩内の同志に呼びかけて日光を占領し、東京に火を放って天皇を京都に連れ出す作戦を練った。
一方、同じころやはり京都に滞在していた外山光輔も、家臣の高田修とともに同じような計画を企てていた。高田は、青蓮院門跡家臣三宅瓦全や菊亭家家臣矢田隆男と父の矢田穏清斎、美作国庄屋立石公久らと密談を進めたが、特に立石は久留米藩領内に匿われている大楽源太郎とも連絡を取っていた。東京で愛宕が同じような計画を立てていることを知った外山は、使者を送って協力を結んだ。愛宕の計画に加わっていた久留米藩士らも当然、本国の同志や彼らの庇護下にあった大楽と連絡を取り合っていたことから、愛宕・外山・久留米藩及び大楽による三角同盟が形成されることとなった。