初岡敬治
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幼年期
敬治は、秋田藩藩士の小貫頼久の次男で母は小田内助右エ門の養女として、秋田古川町(現・秋田市中通三丁目)で生まれた。5人兄弟の次男であった。8〜9歳の頃に漢籍を林方斎[注釈 1]に学び、その後白土右門[注釈 2]の塾に入り教えを受けた。言動は極めて品行方正であった。15歳の時に父が死亡し、18歳の時に初岡氏を継いだ。初岡氏の祖先は藩主佐竹義堯に使えた女中で、名を初岡の局という賢明で功労があったため、藩主から初岡の姓を賜わり家を立てた女性であった。生涯夫を持たず尼になって養子をもらい家を継がせるものの、子が放蕩無頼のため家は断絶させられていた。小貫氏と縁続きだったため、敬治は初岡氏を再興することになった[1]。
初岡敬治は学問を林方斎、白土右門から受け、右門から愛された。白土は藩命により上京中、身をもって時代の新風を吸収し、かねていだく勤王思想にみがきをかけ(平田篤胤の影響から、秋田藩では元々勤王思想の勢力が大きかった)、帰国後は藩内の革新派の台風の目になっていた。敬治は平田篤胤の影響から勤王思想を持っていたが、さらに水戸学にも傾倒していたと考えられる[2]。
幕末の建白書
1863年(文久3年)6月、平田延胤が藩主佐竹義堯に勤王実行の建白書を上奏する。同月、敬治もまた建白書を上奏する。この文章には新興勢力に対抗するために、外国勢力に頼る危険性を強調するもので、攘夷論から勤王論に発展するものであった。更に翌年1864年8月の建白書には「京都の混乱に惑わされず、藩主上京の上は、長州、会津などは拘泥することもなく、皇統維持一本でゆけ」と叱咤激励している。前月京都で起きた禁門の変で、長州藩が御所に向かって発砲したのに怒り、彼を族とみなしたからだ。初岡の長州嫌いは生涯断ち切れぬ糸になっていた。しかし、この建白もこと事なかれ主義の主流派からは相手にされず、藩校明徳館にあって、書紀、諸役、準教授を経て春秋亭の教授に任ぜられたものの、直接藩政にタッチする身になれなかった[3]。藩校「明徳館」の教授として平田篤胤の尊王思想を広め、戊辰戦争では秋田藩を奥羽越列藩同盟から離脱させ、新政府側に転じさせるために尽力しました。
戊辰戦争
1868年の戊辰戦争では、秋田藩は緒戦から悪戦苦闘の連続で、ついには強力な増援部隊が必要になった。中央に対するその陳情の大役が敬治に割り当てられた。
敬治は8月8日、遠藤弥生とともに土崎港から海路京都へ向かった。敦賀に上陸して18日早朝入京、休むまもなく軍務官判事井田五蔵に面会する。ついで岩倉具視の書を携えて、遠藤は越後に急行し、初岡敬治は兵庫に出向いて曽我準造を相手に船舶、兵器、軍費、兵員の獲得交渉に夜を徹するひざずめ談判を開始した。本営も内情は苦しいので、容易にまとまらなかったが、佐賀の副島種臣が敬治の熱意にほだされて奔走の結果、ようやく軍費3万両、鉄砲千挺、兵員850名を馬関から船積みすることに決した。敬治は22日故郷の畏友介川作美に長文の手紙を書き、その最後に「もし懇願が容れられない時には、京都に討ち死にの決意だ」と記している[4]。
明治新政府の公議人として
敬治は秋田藩の公議人添役として上京したが、実質は公議人同様の実権が与えられていた。戦後、彼は京都にとどまって国もととの連絡や他藩との交渉、新政府への建白と多忙な毎日を送り、明治元年10月東京遷都後は東京に住まいを移し、12月に政府が公議所を設けると、公議人としてそのまま横滑りした。講義所は諸藩から選出された民意の代表たる公議人270名によって、国事を論議するのが建前になっていた。
公義所は概して保守派の勢力が強く、森有礼が廃刀案を建議したときなど、満場一致で否決されるありさまであった。こうした時の音頭取りはほとんど敬治であった。敬治は公議所の様式が椅子テーブルの様式なのを不満として、和風に改めさせた。麻の上下を新調して出勤するなど、保守派の最右翼であった。形式の洋化が精神堕落の前提であることを力説する建白も数度に及び、要路の人々はよほど辟易したらしく「廟堂泣かせの初岡」なるあだ名まで誕生した。大久保利通をして「公議所など無用の論多く、まだ今日の御国体には適さないので、一時期閉局したほうがよいだろう」と言わせる原因を作った。だが実際には閉局されず、明治2年7月には、待詔院の事務を併合して集議院と改称され公議人は議員となり、敬治は幹事に挙げられた[5]。
東京招魂社幟事件
明治2年7月1日から、東京九段上に新設された招魂社(現在の靖国神社)で、維新の際国難に殉じた人々のため5日間の大祭が施行された。その初日、今の大鳥居があるあたりに、甲冑姿の武士が外人の像を足蹴にしている図に「天涯烈士皆垂涙、地下強魂定嚼臍。久保田藩邸中、冬松初岡正謹書」と頭書した、縦5mあまり、横3mの大幟が立てられ、参拝者の度肝を奪った。陸放翁の詩を借りて、政府の文明開化調に痛棒を加えたものであることは、一見して知れる。
幟の反響は意外に大きく、ことに第二句が刺激的だと、各方面から苦情を持ち込まれた軍務局は、三日目に撤去を命じた。激憤した敬次は自ら当局に出頭して香川敬三に連日論争を展開、大祭終了後は軍の実力者大村益次郎に直談判し、藩邸の門前に立てることを許可されると息巻く始末に、応対するものいずれも閉口し、軍務局御用掛加藤某が八方謝罪してようやく事をおさめた。このため、敬次は一躍市中話題の人となり、まもなく「大和心で死んではみたが「天涯の烈士皆涙を垂れ、地下の強魂定めし臍を噛まん」まるで異国の魂まつり」という作者不明の都々逸が、酒席の人気を占めるようになった。
幟事件が落着して間もない7月14日、岡崎恭助[注釈 3]が敬次の住居を訪ねた。また、古賀十郎[注釈 4]も度々初岡の住居を訪ね、初岡敬治はこのような危険人物との接点をもつことになる[6]。
剣舞騒動
9月21日、秋田藩は戊辰戦争の際に、援助を受けた長州藩以下諸藩の幹部を柳橋梅川楼に招いて慰労の宴を張った。敬治は席上「姦斬るべし姦斬るべし、姦斬らずんば蒼生[注釈 5]を如何とせん。夷払うべし夷払うべし、夷払わずんば国家を如何せん」と吟じながら剣舞を演じた。席にあった長州藩の桂太郎は「初岡さん。姦とは何人をさしたものか」と詰め寄ってきた。つい先月京都で遭難した大村益次郎の刺客中に、秋田藩士の金輪五郎ありとの報告を得ていた桂は、勘ぐっていた。初岡は「満天下を指し姦と言った」と答えたが、桂は納得しなかった。
座は険悪なまま解散し、後には姦とは大村及び木戸孝允、それに土佐の後藤象二郎を指すもので、敬治自身も明言したと尾びれがついた噂が広まった。大村の暗殺の取り調べが終わり、敬治は無関係と判明したものの、後藤象二郎は納得せず土佐の山内容堂を動かし、10月18日人を秋田藩邸に派遣して、責任を問う騒ぎにまで発展した。種々探ってみると、無責任なうわさの火元は長州藩邸と知れ、今度は敬治が長州側に反論を加えた結果、形勢不利になった木戸孝允は自ら佐竹義堯を訪ね、初岡の帰国を勧めた。義堯は敬治にそれを言うと、敬治は「事の白黒がつくまで動きませぬ」とがんばった。義堯はこれを不遜として蟄居を命じたが、これを聞いて梅川で同席した薩摩藩の内田仲之助と佐賀藩の木原義四郎が同情して、容堂に敬治の人物を説いて広い心で許すことを説いた。その口利きで蟄居もとけ、容堂は敬治に会いたいとまで言い出した。明治3年2月9日には容堂は敬治を酒の接待をし、16日には容堂と黒田長徳が秋田藩邸で会合をした[7]。
秋田中川塾と敬治の秋田への帰国
敬治は秋田での新政府への不満分子の盟主的立場に置かれた。秋田では権現大参事中川健蔵がリーダー格で東京と気脈を通じていた。中川は家塾を設け、朱子学を講じ、新巨川流の剣技を指南していた。剣の師範代は中村恕助[注釈 6]、秋田の桐野利秋と言われた男で、気性が荒かった。過激人物が集まる中、3月初岡敬治は権大参事として、若殿佐竹義脩の教育係を命じられ帰国した。中村以下の青年将校は俄然色めき立った[8]。敬治は公議所の公議人を勤めていたが、明治2年3月に公議所は廃止され、7月に集議院と改められ、敬治は集議院議員になっていた。明治3年3月にはその役を中川健蔵と交代して秋田に戻った[9]。
征韓未遂事件
当時、外務大丞丸山作楽は征韓論が容れられなかった場合、直接行動によって政府を対外強硬派で塗りつぶそうとしていた。李氏朝鮮は日本の政権交代を飲み込めないまま、新政府からの書類は一切受け付けず、三回にわたる使者に派遣も空振りに終わった。これを日本蔑視と断じた丸山らは、政府に武力解決を迫ったが、相手にされない。憤懣やる方ない丸山は私設征韓軍を組織しようと、まず幹部の割当を決めた。敬治と交流があった岡崎恭助は丸山と組んで幹部の一人に収まり、征韓に必要な軍艦の物色を始め、白羽の矢を秋田藩の仮装艦八坂丸に立てた。そこに熊本の中村六蔵が上京、澤宣嘉の屋敷に匿われながら岡崎とは直ぐに意気投合し、ふたりは初岡敬治を口説き落としに7月末秋田に向かうことになった。二人は米沢に幽閉されている雲井龍雄を逃がして、秋田に連れていき、船で東京に来てもう一度行動を起こそうと計画をした。ところが雲井龍雄は結核が進行して行動が無理と知り、二人は酒田経由で秋田入りして、初岡敬治を訪ねた。敬治は承諾をして船を廻すという。中村はそれを早く知らせるために陸行して東京に向かった。岡崎は兵糧、爆弾その他の色々な物を積んで船出して、佐渡沖で大風のために吹き付けられ船は沈没した。これで征韓はご破算になった[10]。
二卿事件
古賀十郎も、同じ頃横井小楠の刺客救命に暗躍したので京都に飛ばされ、間もなく免職になり、紫野に私塾を開設して同士を集めていた。公家派とはすぐ結びつき、九州派とも古松簡二[注釈 7]の仲介で繋がっていた。そこに中村恕助が現れる。古賀とは敬治を通じて旧知である。さっそく一書をしたためて初岡敬治乗り出しを中村恕助に託した。明治4年2月13日、中村は密書を懐中に帰国し、敬治を説いた。古賀の手紙には「中村氏ニ此一大事件ヲ託シ、同人ニ奔走困難之儀ヲ相願候」とあった。一大事件とは日光山に立てこもり、同時に東京、関西の組と呼応して、第二維新戦を展開することだと語った。敬治は二つ返事で承知すると思いきや、征韓計画の失敗から考えの甘さを感じ慎重になったか、答えは煮えきらず中村を失望させた。中村は御親兵募集を中川塾生に頼み、古賀に自粛を望む初岡啓治の返答を持って直ぐ上京した。
これより前、2月中旬、愛宕従四位は挙兵に踏み切り、一党の総指揮に当たるため疋田、安木を従えて上京し、3月第一回の会合を元柳町の料亭で開いた。しかし、これらの人物は政府の要視察人で、会合は筒抜けで、15日一斉検挙された。その中に秋田藩士が二人いた。京都にも司令が飛び、外山一派が挙げられ。あとは芋づる式に挙げられた。東京護送が決定するまで古賀は柳川藩邸に禁錮された。彼は後事を敬治に一任すべく書をしたため、東京秋田藩邸内あてに届けさせた。敬治はそこにいなく、中村恕助も到着前。受け取ったのが中川健蔵だった。開いてみると内容は甚だ穏やかではない。中川健蔵は中村恕助の到着と同時に所持品を改め、一切の証拠書類を藩庁に提出し、自分は不取締りを理由に進退伺を出し、手早く予防線を張った。中村恕助は禁錮され、初岡敬治も護送され5月29日に東京に着く。6月4日に日比谷の仮檻に投ぜられ、過酷な取り調べののち、10月3日伝馬町の大牢入りとなった。12月3日午前、司法省において小河、高田、古賀、疋田とともに、庶民に下ろし斬罪の判決午後処刑された。始め初岡啓治は禁錮10年の刑であったが、後藤象二郎の圧力で極刑にされたという。遺骸は東京板場総泉寺に葬り、遺髪を秋田天徳寺裏地蔵堂の近くに埋めた[11]。