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二諦坊

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二諦坊(にたいぼう、にていぼう)は、修験道の坊。

鴨江寺の鎮守であった白山宮(現・浜松市中央区)の別当を務めた。遠江国三河国駿河国の白山先達職であり、後に当山派の諸国総袈裟頭の兼帯となった。

歴史

創建は不詳。『東照宮御実紀附録巻十九』には松下常慶が坊主を務めたと記される。康松院や甚教院と記す史料もある。 大永5年(1528)8月に今川氏親よりそれまで頭陀寺千手院に対して保証していた遠江国の白山先達職のうち浜松荘のうち天竜川より西の先達職を保証される[1]。 天正18年(1590)に豊臣秀吉より三河・遠江・駿河での白山先達職を保証される[2]これは徳川家康にも追認される。

寛永年間には叶坊と結託して曹洞宗の可睡斎と秋葉山別当職をめぐり訴訟をおこすも敗訴する。しかし、秋葉修験の大半は当山派に属すことになり、袈裟頭として配下に置くことに成功する。こうした関係から二諦坊を秋葉修験と見なす説や二諦坊と叶坊を同一視する説もあるが、二諦坊は秋葉修験ではなく、叶坊とも別である[3]。

同じく寛永年間には長瀧寺とも牛王札の権利をめぐって訴訟をおこし、こちらは牛王札の配札権を勝ち取ることに成功している。その際、配札中の長瀧寺衆徒の荷物を二諦坊配下が強奪するなど版図拡大のためにかなり強引な手法を採っていた記録が残る[4]。

元禄年間に当山派の組織再編が進められて、二諦坊は諸国総袈裟頭の兼帯となる。それまでの当山派は有力修験が袈裟筋と称する弟子をそれぞれ従え、その盟主として三宝院門跡を仰ぐものであった。そのため「当山方」とも呼ばれる。この組織形態を三宝院門跡の高賢が門跡を頂点とする組織へと再編した。その一環として三宝院門跡の直末であった江戸の吉増院を鳳凰閣寺戒定院と改称し、聖宝の廟のある吉野の鳳閣寺を兼帯させた。両者を区別するため戒定院は江戸鳳閣寺と呼ばれる。そして江戸鳳閣寺を当山派諸国総袈裟頭に任じ、三宝院門跡の直末の修験を増加させていった。この組織再編のなかで二諦坊も江戸鳳閣寺の住職が兼帯するようになる。 明治維新により廃絶する[5]。

二諦坊配下

二諦坊配下として文郎坊、地蔵坊、宝教坊、快泉坊の記録が残る[6]。このうち宝教坊、快泉坊については秋葉山に同名の当山派修験の存在が確認できる。

出典

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