二階俊太郎
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和歌山県西牟婁郡三舞村大字久木(のち日置川町大字久木、現白浜町大字久木)出身[8]。二階与一郎の長男[3]。1933年[3]、中央大学法科を中退[1][5]。
東洋汽船の太平洋航路船の乗組員、筏流し、農蚕業、母校の安居小学校の代用教員、紀伊民報社の記者、活版印刷業を経て[7]、1938年3月に和歌山県会議員に補欠当選[1][9]、1939年に再選[1]。2月には息子・俊博が生まれる。
1940年9月、県会議員でありながら日高郡稲原村長に請われて就任した[7][9]。県下有数の名村長として知られた[4]。
1943年4月、広瀬永造知事の推薦で新設の御坊造船社長に就任した[7][9]。県会議員、稲原村村長、御坊造船社長の三役を兼務することになり、多忙を極めた[7][9]。また和歌山県参事会員に挙げられた[10][11]。
1946年、戦後初の衆議院議員選挙が行なわれ周囲から推されて出馬したが落選した[9]。また戦時中、村長職は自動的に大政翼賛会の支部長とされ、稲原村長を務めていた俊太郎もその罪を問われ公職追放を受けた[7][9][12]。やむなく県会議員、稲原村長を離任した[7][9]。俊太郎は毎朝、朝刊が配達されると同時に起床して、朝刊を開くと、まず追放解除者の欄を確認した[7][9]。
