五藤為浄
日本の武将 (1553-1583)
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略歴
天文22年(1553年)、五藤浄基の子として尾張国葉栗郡黒田[3]で誕生した。
五藤家は父・浄基の頃から山内家に仕え、為浄も当主・山内一豊に従い刀根坂の戦いなどに転戦する。
天正元年(1573年)、朝倉氏と戦った金ヶ崎の戦いで、矢が一豊の頬に刺さり、左眼横から右奥歯を貫通したが、五藤吉兵衛が一豊の顔を踏んで抜いた。五藤は「主君の顔を踏んだ」ということを喜び、わらじと矢を家宝にした[4][5]。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの前哨戦である伊勢国亀山城攻撃の際、主君・一豊の城内一番乗りを助けるが、討死した。享年31と伝わる。
その後、家督は養子の五藤浄清が弟・為重の娘を娶って継承し、為重自身は山内家の家老となった。山内一豊が土佐国に入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。その後も五藤氏は幕末まで代々土佐藩の家老を勤めている。