加納口の戦い
1547年に日本で発生した合戦
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戦いの経緯
『信長公記』[1]によるこの戦いの経緯は、以下の通りである。年次未記載の9月3日、織田信秀は尾張国中に要請して兵を集め、美濃へ侵入した。方々に放火をして回り、9月22日には斎藤道三の居城稲葉山城山麓の村々も焼き払って町口にまで迫った。しかし、申の刻(およそ午後4時ごろ)になったので一旦引き上げることにし、兵が半分ほど引いたところへ道三が攻撃してきて、織田方は守備が整わず、信秀の弟織田信康や信長の家老青山信昌など5千人が討ち死にした。
ところが、『美濃国諸旧記』には全く異なる経緯が書かれており、天文13年8月15日(1544年9月2日)、道三の美濃守護土岐頼芸に対する逆心を憎んだ信秀が、越前の朝倉孝景と呼応して美濃へ南北から攻め入り、信秀の兵数は5千余人だったという。両勢に攻められた道三は和睦することにした。しかし朝倉・織田は道三を信用せずに、天文16年8月15日(1547年9月28日)にも大桑城に籠もる頼芸・頼純に蜂起させて、朝倉・織田連合軍で支援しようとしたが、道三が先手を打って大桑城を1万3千の兵で強襲して攻め落とした。頼純は打って出て討ち死にし、頼芸は朝倉を頼って一乗谷に逃れたという[2]。
