大桑城
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(岐阜県) | |
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天守台跡(2020年10月) | |
| 別名 | 特になし |
| 城郭構造 | 山城 |
| 築城主 | 大桑又三郎 |
| 築城年 | 鎌倉時代 |
| 主な改修者 | 土岐定頼 |
| 主な城主 | 大桑氏、土岐氏 |
| 廃城年 | 天文16年(1547年) |
| 遺構 | 主郭跡、曲輪跡 |
| 指定文化財 |
国の史跡「大桑城跡」 ※山麓の「四国堀」は市指定史跡[1] |
| 位置 | 北緯35度32分23.1秒 東経136度46分01.2秒 / 北緯35.539750度 東経136.767000度 |
大桑城(おおがじょう)は、岐阜県山県市大桑・青波・富永地区の境にあった鎌倉時代から戦国時代にかけての日本の城(山城)。標高408メートルの古城山(別名・金鶏山)の山頂付近に存在した[2]。国の史跡に指定されている[3][4]。
歴史
『美濃国諸旧記』によれば、逸見義重が承久3年(1221年)の承久の乱での功績によって大桑郷を領地とし、子の大桑又三郎が大桑城を築いたとされる(1250年頃か)。また、守護・土岐成頼の3男の土岐定頼が明応5年(1496年)に改築し、大桑兵部大輔と名乗って一代限りで住んだともいう(後に大畑と改姓)。その後は土岐頼純・頼芸の兄弟が居城とした。1509年(永正6年)には守護代の斎藤氏が台頭してきた事もあり、土岐氏は拠点を川手城(現済美高等学校付近)から福光館(現岐阜市福光)に移し、さらに1532年(天文元年)に枝広館(現岐阜県立長良高等学校付近)に移す。
天文4年7月1日(1535年)、長良川の洪水で枝広館は流失したため、当主の土岐頼芸は拠点を稲葉山山麓に拠点を移した。また、土岐頼純は越前国の朝倉氏の協力で大桑城を拠点とし、城下町を開く。『美濃国諸旧記』によれば、1542年(天文11年)に斎藤道三に攻められ頼芸は城を出たが、尾張国の織田信秀の仲介で和睦し帰城した。しかし1547年に道三が再び侵攻すると落城して頼純は討死し、頼芸も本巣郡河内(現・本巣市)に逃れ、大桑城は道三によって焼かれた。
現在

古城山山頂からは岐阜の街を展望できるため、現在では古城山は登山・ハイキングコースとして親しまれている。
山麓の市指定史跡「四国堀跡」は、城下に造られた空堀と土塁からなる遺構で、尾張・伊勢・越前・近江の4ヵ国から加勢を受けて築造したと伝わる[5]。
1988年(昭和63年)、古城山山頂近くの大桑城本丸跡地近くにミニチュアの大桑城(模擬天守閣)が造られている。ミニ大桑城と呼ばれている[6]。
2020年(令和2年)12月、大桑城、および大桑城城下町の跡は、山県市教育委員会の手で発掘調査が進められており、巨石を用いた城門などが見つかっている[7][8]。2021年には台所と呼ばれる庭園があったことが判明した。池の跡とみられる窪地が発見されている。[9]
城の南西、富永字相原地区には、土岐氏が大桑城入城の際、越前の平泉寺白山神社を模して祀られた白山神社がある。平泉寺白山神社のように苔で覆われた参道を抜けると社殿(国の重要文化財[1])がある。
