井上房一郎
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いのうえ ふさいちろう 井上 房一郎 | |
|---|---|
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1935年 | |
| 生誕 |
1898年5月13日 |
| 死没 | 1993年7月27日(95歳没) |
| 出身校 |
旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)卒 早稲田大学中退 |
| 職業 | 井上工業社長 |
| 子供 | 隆太郎 |
| 親 |
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| 親戚 |
水上達三(妹の夫) 唐沢俊樹(妻が姉妹) 山崎種二(継母の甥) |
井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年〉5月13日[1][2][3][4] - 1993年〈平成5年〉7月27日)は、日本の実業家。井上工業社長・会長。
ブルーノ・タウトを招聘しての工芸運動や、群馬交響楽団の創設、群馬音楽センターの建設といった文化活動によっても知られている。

1898年(明治31年)群馬県西群馬郡高崎町新町(現・高崎市八島町)に生まれる[5][3][4]。高崎白衣大観音の建立に力を尽くした井上工業社長・井上保三郎の長男[1][2][5][3][4]。母は戸ウ(こう)[3]。実母は1904年(明治37年)に死去した[6]。
高崎市立南尋常小学校、旧制高崎中学校を経て、1916年(大正5年)に早稲田大学へ進学する[7]。同時に川合玉堂の塾に通い、山本鼎・北原白秋・片上伸らの知遇を得る[2]。早稲田大学はほどなく中退[2]。1918年(大正7年)に帰郷し[5][8]、群馬初のレコードコンサートを開催したり、中学の同窓だった蠟山政道・住谷啓三郎と高崎新人会を結成し、吉野作造・大山郁夫を招いて講演会を開催したりした[5][9]。
1923年(大正12年)に山本の勧めでフランスのパリに留学[1][5][10][4]。パリでは馬越舛太郎や青山義雄、宮坂勝らと親しく交流[11]。絵画や彫刻を学びながらアルベルト・ジャコメッティ兄弟と親交を結び、ポール・セザンヌに傾倒する[12]。1929年(昭和4年)に帰国の途につく[5][13]。
1930年(昭和5年)井上工業取締役に就任[14][4]。1931年(昭和6年)に杉原栄三郎(実業家・東京府会議長)の四女で唐沢俊樹の義妹にあたる春子と結婚[15]。仲人は有島生馬夫妻だった[15]。同年高崎木工製作配分組合を設立して理事長に就任、工芸運動を推進していく[16]。1932年(昭和7年)には長男・隆太郎が誕生し、房一郎は高崎板紙取締役に就任した[16]。1933年(昭和8年)に群馬県輸出工芸協会を創立し理事長となる[16][4]。同年製品を外国人に販売するための店「ミラテス」を軽井沢に開き、ノミエ・レーモンドがこの店を訪れたことがきっかけとなってその夫である建築家・アントニン・レーモンドと知り合うこととなる[17]。
1933年(昭和8年)ナチス・ドイツを逃れてブルーノ・タウトが来日し、久米権九郎の紹介により、1934年(昭和9年)初めて面会する[18]。同年、井上工芸研究所顧問として高崎に彼を招いて工芸品のデザインを委嘱した[5][19]。1935年(昭和10年)、銀座にミラテスという店舗を開き、作品を販売した[2][20]。1936年(昭和11年)にタウトは離日し、2年後に死去する[5]。1937年(昭和12年)には高崎毛織株式会社を設立し、満洲産の羊毛を高崎で糸にし、さらに伊勢崎で毛織物とするという新たな工芸運動を試みた[21]。
1938年(昭和13年)、父・保三郎が死去すると井上工業社長に就任[5][22][4]。1941年(昭和16年)に高崎観音を祀る寺院として慈眼院を高野山から招く形で建立した[23]。戦中は群馬県翼賛会壮年団長を務めた[2][24][4]。1944年(昭和19年)高陽スレート建材社長に就任[4]。
戦後、「物がなくても人々の心に灯を点けられる運動であり、世界の言葉でもある」音楽に着目し、戦時中に活動していた音楽挺身隊や疎開していた音楽家を集めて、高崎市民オーケストラ(現在の群馬交響楽団)を設立[2][25]。指揮者に房一郎の仲人だった有島生馬の甥・山本直忠を招いた[2][25]。
1952年(昭和27年)、自宅が焼失したため、麻布・笄町にあったアントニン・レーモンドの自宅兼アトリエを写して新しい自宅を建築した[26]。房一郎邸は現在では高崎市の所有となり一般に公開されている(高崎市美術館)[26]。

高崎中学校以来の親友であった高崎市長・住谷啓三郎や、近衛秀麿・丸山勝廣らと国への陳情を行い、1956年(昭和31年)に音楽モデル県の指定を受けると、レーモンドに設計を依頼し群馬音楽センターを1961年(昭和36年)に完成させる[27]。1963年(昭和38年)にはこれらの文化活動によって文化功労者として群馬県知事表彰を受けた[2][27][4]。
また、群馬県に近代美術館を設立することを強く望み、1965年(昭和40年)に財団法人群馬県美術館設立準備会を設立[28]。井上工業ビル3階に群馬県ファウンデーション・ギャラリーを開設して、郷土作家をはじめとする美術品の展覧会を開催した[29]。1974年(昭和49年)に群馬県立近代美術館が開館すると、かねてからこれを目的に収集していた230点余りの美術品を寄贈し、これらは「戸方庵井上コレクション」と名付けられた[30][4]。同年、高崎市文化賞受賞[2][30][4]。
1969年(昭和44年)に高崎哲学堂設立準備会を組織[31][4]。1980年(昭和55年)には財団法人高崎哲学堂設立の会の認可を受け、理事長に就任する[32][4]。
また、1969年(昭和44年)には、倉賀野小学校教師・竹内俊郎から当時小学校3年生の山田かまちの絵を見せられ、彼を自宅に招き生涯1度の対面をしている[33]。
日本博物館協会博物館功労賞(1979年)[2][30]・日本文化デザイン賞(1982年)[2][30]・国井喜太郎産業工芸賞(1979年)[4]などを受賞。1992年(平成4年)、群馬県立近代美術館に胸像が設置された[2][30]。
1964年(昭和39年)に高崎生コンクリート社長に就任[34][4]。1984年(昭和59年)に井上工業会長となる[4][35]。
1993年(平成5年)7月27日に死去[2][36]。没後、群馬県文化功績者特別表彰・高崎市功労者賞が贈られた[2][30]。