彫刻
立体形象を造形する視覚芸術の一分野
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彫刻(ちょうこく、英: sculpture)は、素材を用いて三次元空間に立体形象を造形する視覚芸術の一分野であり、造形芸術の一つである[1]。絵画が主に二次元平面で形成・表現されるのに対し、彫刻は三次元空間を場として成立し、現実の光と影、触知性、運動性を媒介として鑑賞される[2]。古く日本では「彫鏤」「雕琢」などの語も用いられたが、1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に牙彫や木刻などの彫り物(carving)を出品するにあたり、英語 sculpture の訳語として「彫刻」が用いられ、のちに塑造(modeling)の意味も含めて「彫塑」とも呼ばれるようになった[1]。






伝統的には、石や木材などから素材を取り除いて形を作る彫り(カービング)と、粘土などの素材を付加して形を作る塑造(モデリング)が主要な制作法である。日本大百科全書は、制作工法を、素材そのものを作品に仕上げる直接法と、原型を他の素材に置き換える間接法に分けている[1]。また、世界大百科事典は、彫刻の基本技法を「こね上げること」「刻むこと」「構成すること」、すなわち塑造・彫刻・構成の三つに分類している[2]。モダニズム以降は素材と制作過程の自由度が大きく拡張し、各種のオブジェ、構成物、インスタレーション、アッサンブラージュ、ランド・アート、キネティック彫刻などを含む方向へ概念が拡張している[1]。
石・青銅など耐久性の高い素材で作られた彫刻は屋外環境に残りやすく、古代社会では記念碑や権力表象の媒体となることがあった[3]。一方、木材など腐朽しやすい素材による作品は現存しにくく、地域によっては歴史的な実態を復元しにくい[4]。古代ギリシア・ローマ彫刻の多くは本来彩色されていたが、発掘・伝世の過程で彩色の大部分が失われた[3][5]。
西洋美術史では、古代ギリシア彫刻における人体の自然主義的表現、ゴシック彫刻におけるキリスト教図像、ルネサンスにおける古代ギリシア・ローマ美術の再評価、バロック彫刻における動的な群像構成などが、彫刻史の主要な展開として扱われる[3]。近代以降は自然主義的な人体表現から離れ、様式化、抽象、構成、既製品、アッサンブラージュ、インスタレーションなど、素材・空間・鑑賞経験を含む方向へ表現領域が広がった[3]。
種別
基本的な区分は、土台を除いて他の壁面と接しない彫像のような丸彫りと、少なくとも部分的に背景面と接する浮彫である。世界大百科事典では、彫刻を丸彫彫刻・浮彫・近代のモビールに大別している[2]。浮彫は絵画の平面性に近い性格ももつが、作品の凹凸と現実の明暗との関係が鑑賞の媒介となる[2]。浮彫は壁面からの突出度に応じて低浮彫り・中浮彫り・高浮彫りなどに分類され、低浮彫りは「薄肉彫り」「浅肉彫り」とも呼ばれる[6]。
もう一つの基本的な区分が、石や木など既存の塊から素材を除去する彫刻(カービング)の技法と、材料から作品を形作ったり構築したりする塑造(モデリング)の技法である。鋳造、プレス加工、型による成形などの技術では、意匠を含む中間的な型や母型を用いて作品を作ることができ、その多くは複数の複製の制作を可能にする。彫刻と塑造という二つの技法を指して「彫塑」と呼ぶこともある[1]。

「彫刻」という用語は、しばしばモニュメント彫刻、すなわち大型の彫刻、または建築物に付属する彫刻を指して用いられる。しかしこの用語は、貨幣やメダル、彫刻加工した半貴石による硬石彫刻など、細やかな作業を要する同じ技術を用いた三次元のさまざまな小作品も指す。[2]
規模による分類では、頭部像、胸像、小立像、メダルのような小型作品から、騎馬像、モニュメント彫刻、巨像まで含まれる。近代美術および現代美術では、彫刻は単一の自立物に限られず、動く彫刻、アッサンブラージュ、サイトスペシフィックな環境、音・光・映像を含むインスタレーションなどにも広がっている[3]。
目的と主題

彫刻の主題と用途は、宗教的図像、肖像、建築装飾、墓碑・記念碑、貴金属工芸や小型装飾品まで幅広い。世界大百科事典は、彫刻が先史時代以来、宗教的図像から肖像、建築装飾、貴金属工芸に至るまで多様な需要に応じてきたと説明している[2]。また、古代エジプトやメソポタミアなどでは、宗教生活や支配者の権力を記念するため、大型彫刻や耐久性の高い素材による記念碑的造形が作られた[3]。
肖像彫刻は、支配者、宗教者、墓の被葬者、近代以降の市民的記念像など、人物を記念・顕彰する形式として発展した。西洋では古代ギリシア・ローマの人体表現が後代の規範となり、ルネサンス以降には胸像、肖像メダル、騎馬像、墓碑彫刻など多様な形式で展開した[3][7]。動物・植物・怪物・器物などのモチーフも、宗教的象徴、墓や宮殿の装飾、宝飾・工芸品、建築装飾などで広く用いられてきた[2]。
素材と技法

彫刻の素材は、石、青銅、木、陶土、象牙、ガラス、各種金属、合成樹脂、既製品など多岐にわたる。伝統的には、石や木などの塊から素材を取り除く彫り、粘土などを加えて形を作る塑造、溶かした金属を型に流し込む鋳造などが主要な技法であった[1][2][8]。Getty Museum は、彫刻の基本技法を、素材を削り取る「カービング」、溶融素材を型に流し込む「鋳造」、粘土などを盛り上げる「塑造」、複数素材を組み合わせる「アッサンブラージュ」に整理している[8]。
彫刻は本来彩色されることも多いが、古代彫刻の彩色は風化や伝世の過程で失われている場合が多い[3][5]。近現代には、発見された物体、廃材、音、光、映像、空間全体を作品に組み込む例も増え、彫刻の素材と形式は大きく拡張した[3]。
石

石の彫刻は、天然石から素材を除去して形を作る減算的な技法である[8]。石は耐久性が高く、古代以来、記念碑、建築彫刻、墓碑、宗教彫刻などの主要な媒体として用いられてきた[3]。
オリジナル石像の模刻(これが古代ギリシア彫像にとって非常に重要だった)は、伝統的なポインティング[注釈 1]とフリーハンドの手法を併用することで達成された。ポインティングでは、原型を囲む木枠に正方形のグリッドを着けて、グリッド上の位置と石像個々の点との一連の距離を測定し、この情報を活用してブロックに彫刻を施すことで複製品が製作される[9]。
金属
青銅は、古代から大型彫刻や記念碑に用いられてきた代表的な金属素材である。青銅彫刻は制作に高度な技術と費用を要するため、記念碑的な青銅像は社会や国家の富・権力を示す媒体にもなった[3]。鋳造では、溶融した金属を型に流し込み、冷却・硬化させて形を得る[8]。具体的な技法には、ロストワックス鋳造、石膏鋳造、砂型鋳造などがある。近現代の金属彫刻では、鋳造に加えて溶接や組立による構成も重要な技法となった[3][8]。
ガラス

ガラスは広範な作業技術を介して彫刻に使われる場合もあるが、大型作品での使用は近年始まったものである。彫刻することも可能だが、かなりの困難を伴う。ローマ時代のリュクルゴスの聖杯は、そのほぼ唯一といえる独特の例である[10]。高温注型は、砂をプレス成型したりグラファイトを彫ったり精巧な石膏・シリカ製の型に溶融ガラスを注入することで実行可能である。窯鋳造ガラスは、窯でガラス塊を液体になるまで加熱して、窯の下に置いた金型にそれを流し込む。ガラスはまた吹きこんだり手工具を用いて高温彫刻されたりもする。近年の技法には、チゼル彫り、ケイ酸ポリマーや紫外線を用いた板ガラス接着、などがある[11]。
陶土
陶土は彫刻にとって最も古い素材の一つで、粘土はまた、金属で鋳造される多くの彫刻において、鋳造前の原型を塑造するための媒体でもある。彫刻家は、石膏、蝋、未焼成粘土、プラスチック粘土などでマケットと呼ばれる小型の予備作品(彫刻の雛型)を構築することも多い[12]。多くの文化が器としての機能と彫刻的な形を兼ね備えた陶製品を生み出しており、陶製の小立像は、近代西洋文化におけるのと同じく、多くの文化で親しまれてきた。印章や型は、古代ローマやメソポタミアから中国に至るまで古代文明の大半で使用されていた[13][14][15]。
木彫り


木彫は、石彫と同じく素材を削り取って形を作る減算的な技法に属する。木材は石よりも加工しやすく細部表現にも適するが、腐朽、昆虫、火災などに弱く、古い木彫作品は石や青銅に比べて現存しにくい[8][4]。
柔らかい素材
布、毛皮、プラスチック、ゴム、ナイロンなど、詰める、縫う、吊るす、垂らす、織るといった操作が可能な非伝統的素材を用いた三次元作品は、ソフト・スカルプチュア(柔らかい彫刻)と呼ばれる。代表的な作家には、クレス・オルデンバーグ、草間彌生、エヴァ・ヘス、サラ・ルーカス、マグダレーナ・アバカノヴィッチなどがいる[16]。
彫刻家の社会的地位
彫刻への反対運動
歴史
先史時代
ヨーロッパ

間違いなく最初期といえる彫刻の例が、後期旧石器時代の初期にヨーロッパと南西アジアで活動していたオーリニャック文化に属するものである。この文化の人々は最初期の洞窟壁画を幾つか製作したほか、精巧に作られた石器、手づくりのペンダント、ブレスレット、象牙ビーズ、骨笛、ならびに三次元の小立像を作っていた[23][24]。
ドイツのホーレンシュタイン・シュターデル地区で見つかった高さ30cmのルーヴェンメンシュは、ケナガマンモスの象牙から彫られた擬人化のライオン人間像である。それは約35,000-40,000年前に遡るもので、ホーレ・フェルスのヴィーナスと共に知られている最古の造形芸術の例である[25]。
現存する先史美術は持ち運べるほどの小型彫刻で、ヴィレンドルフのヴィーナス(24,000-26,000年前)など女性を模したヴィーナス小像の一群が中央ヨーロッパ全域で発見されている[26]。約13,000年前のスイミング・レインディア(泳ぐトナカイ)は、後期旧石器時代美術における動物の骨や角を彫ったマドレーヌ文化の中で最も優れたものの1つで、彫り刻んだ作品として数は多いものの彫刻として分類される場合もある[27][28]。最も大きな先史時代の彫刻はフランスのテュック・ドドゥベール洞窟で見つかっており、そこでは熟達した彫刻家が約12,000-17,000年前にへら状の石器と指を使って粘土で2頭の大型バイソンの模型を作りあげた[29]。
ヨーロッパでは中石器時代初期に具象彫刻が大幅に減少し[30]、ローマ時代まで実用的な小物のレリーフ装飾に比べて芸術は普遍的要素でなかったものの、欧州鉄器時代からのグンデストルップの大釜や青銅器時代からのトルントホルムの太陽馬車など幾つかの作品が存在する[31]。
アジア
古代オリエントでは、人物像・動物像・儀礼的器物など多様な造形が作られた。エジプトやメソポタミアの文化では、彫刻はしばしば宗教生活や支配者の権力を記念するための媒体となり、地中海世界の彫刻伝統にも影響を与えた[3][32]。
東アジアでは、縄文時代の日本列島の遺跡から土偶が多数出土している。土偶は人の姿を模したものだが、大きさは縄文の女神(日本最大とされるもので国宝)でも高さ45cmの小立像である[33]。
- 『ヴィレンドルフのヴィーナス』約24,000-26,000年前。
- 『ローセルのヴィーナス』約27,000年前の後期旧石器時代。ボルドー博物館(フランス)所蔵。
- 『Creeping Hyena(這い進むハイエナ)』12,000-17,000年前。素材はマンモスの牙。フランスのマドレーヌ遺跡で発見。
- 『ウルファマン』紀元前9000年頃。素材は砂岩で高さ1.8m。シャンルウルファ博物館(トルコ)所蔵。
- 『トルントホルムの太陽馬車』恐らく紀元前1800-1500年頃。片方は金箔でもう一方は「未判明」。
古代オリエント

ウルク (メソポタミア)の統治するウルク期には、ウルクの大杯や円筒印章などの洗練された作品の製作が見られた。グエノル・ライオネスは紀元前3000-2800年頃の、エラムで出土した小型の半獣半人像(ライオン+人)である[34]。やや後年に目の大きな司祭や崇拝者の人物像が数多く見られ、主にアラバスター製で高さは最大30cm程、神殿が祀る神々の偶像であったが、現存しているものはほとんど無い[35]。シュメール王朝およびアッカド帝国時代の彫刻は一般に大型で、目を見開いており長いひげを生やした男性だった。多くの傑作がウルにある王家の墓(紀元前2650年頃)で発見されており、牡山羊の像や銅の牡牛像、そしてウルの竪琴についている牡牛の頭部像などがある[36]。
紀元前10世紀の新アッシリア帝国勃興前後の時代から、メソポタミア美術は、円筒印章、比較的小さな丸彫りの像、さまざまな大きさのレリーフの形で多く現存している[37]。バーニーの浮彫はフクロウとライオンを従えた翼のある女神像で、非常に精巧で比較的大型(50 x 37cm)のテラコッタ彫刻である。これは紀元前1900-1800年頃のもので、鋳型が使われた可能性もある[38]。石柱、奉納物、または恐らく勝利を記念したり饗宴を描いたものも寺院から発見されているが、これらは公的な記念碑とは異なりそれらを説明する碑文が欠落している[39]。ハゲワシの石碑の断片は、彫り刻んだタイプの初期例で[40]、アッシリア王シャルマネセル3世の黒色オベリスクは、大型で後期の作品である[41]。
アッシリア人によるメソポタミア全域および多くの周辺地域の征服は、その地域が以前知っていたよりも広大かつ裕福な国家を作り出し、宮殿や公共の場所で非常に壮大な芸術が生みだされた。それはおそらく、隣接するエジプト帝国の芸術の壮麗さに匹敵することも意図していた。以前の国とは異なり、アッシリア人は容易にイラク北部で採れた彫刻用の石を使えるようになり、大量にそうした。アッシリア人は、宮殿用の石材に戦争や狩猟の場面を盛り込んで詳細に物語を綴るレリーフ様式(いわゆるアッシリア彫刻)を生み出した。『アッシュールバニパルの獅子狩り』『ラキシュのレリーフ』などの素晴らしい蒐集物を大英博物館が所蔵している。彼らは丸彫りの彫刻を製作した例がほとんどなく、例外は人間の頭をした巨大な守護者像ラマッスで、これは長方形ブロックの両側に高浮彫りで彫られたもので頭部が効果的な丸彫りである。この地域を支配する前でさえ、彼らはしばしばきわめて躍動的で洗練されたデザインを持つ円筒印章の伝統を続けていた[42]。
- グデア像18体のうち1体、紀元前2090年頃。
- 『アッシュールバニパルの獅子狩り』の一部、紀元前640年頃のニネヴェ
古代エジプト

古代エジプトのモニュメント彫刻は世界的に有名であるが、洗練された繊細な小型作品がもっと多数存在する。エジプト人は、強い日光に適した沈み浮彫りという独特の技術を使った。レリーフの主人物は絵画と同じ図の慣習に従い、脚と頭部を横向きに、胴体を正面向きに表し、地面から額の髪際までを18個の「拳」で測る標準比例に従っている[43]。これは早くもエジプト第1王朝『ナルメルのパレット』に現れる。しかし、他の場所と同様にこの慣習は捕虜や死体など何らかの活動に従事する様子を描いた軽微な人物には使われない[44]。それ以外の慣習では、男性像は女性像よりも濃い色で表された。高度に様式化された肖像彫刻は紀元前2,780年以前のエジプト第2王朝に現れ[45]、アケナテンのアマルナ時代美術は例外だが[46]エジプト第3王朝の一部にも見られ、統治者の理想化された特徴は他のエジプト美術の慣習と同じくギリシアによる征服後までほとんど変化しなかった[47]。
エジプトのファラオは常に神とみなされていたが、ファラオを別の神格として表現する場合を除き、他の神々は大型彫像でさほど一般的ではない。ただし、他の神々は絵画やレリーフで頻繁に示されている。アブ・シンベル大神殿の外にある有名な巨大な彫像4体の列は、それぞれ典型的な構図でラムセス2世を示したもので、ここの像はきわめて大型である[48]。神々の小さな姿またはその動物の擬人化は非常に一般的で、陶器などの普及した材料に見られる。最も大きな彫刻はエジプトの神殿や墓から出土したものが現存している。カーの像という考えは遅くともエジプト第4王朝(紀元前2680-2565年)に確立された。これらは魂のカーにとっての休息場所として墓に入れられたもので、エジプトは乾燥した気候によって木材が数千年にわたり保存されうる世界でも数少ない地域の一つであるため、裕福な管理者夫婦のさほど慣習化されていない彫像が数多く存在する。いわゆる予備頭部は特に自然主義的である。初期の墓には、故人があの世で自分の生活様式を続けるために必要な奴隷、動物、建物、ボート等の品々の小型模型が入れられ、後世にはウシャブティ(埋葬用の小人形)も入れられた[49]。
ヨーロッパ
古代ギリシア

古代ギリシアの彫刻最初の独特な様式は初期青銅器時代のキクラデス文明期(紀元前3000年)に発展し、そこでは大理石像(通常は女性で小型)が幾何学様式に単純化されて優美に象られている。腕を正面で交差させた立ち姿が典型的である[50]。
その後ミノア文明とミケーネ文明がシリアなど他地域からの影響を受けて彫刻をさらに発展させたが、クーロス像が登場したのは紀元前650年頃のアルカイック期である。これらは神殿や墓で発見されている青年の大きな裸身立像で、服を着た女性のコレー像などもあり、いずれもアルカイック・スマイルの表情を浮かべている。像にはさまざまな役割があり、時には神々を表したりクロイソスのクーロス像のように墓に埋葬された人物を示すこともあった。それらは明らかにエジプト様式およびシリア様式の影響を受けているが、ギリシア芸術家はその様式内で多くの実験を試そうとした。[51][52]
6世紀にギリシア彫刻は急速に発展し、さらに自然主義的になり、物語の場面では人物のポーズがより活発で多彩であるが、依然として理想化された慣習の内側にいた。アテネのパルテノン神殿など各神殿に彫刻を施したペディメントが追加され、そこにあった約520体の人物像を使ったペディメントは紀元前480年のペルシアによるアテネ包囲戦後に幸運にも新しい建物の内装として使用され、気候影響のない未劣化状態で1880年代に再発見された。それ以外の重要な建築彫刻の遺物は、イタリアのパエストゥム、ケルキラ、デルポイ、エギナ島のアフェア神殿から来たものである[53][54]。大部分のギリシア彫刻には、もともと彩色が施されていた[3][5]。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館(デンマーク)では、本来の色彩に関する広範な研究および再構成の着色復元を行なっている[55][56]。
- キクラデス文明期の像、紀元前2700-2300年。女性の頭部像で高さ27cm
- キクラデス期の女性小立像、紀元前2500-2400年頃、高さ41.5cm
- ミケーネ文明の作品、紀元前1600-1500年。額に金の角と薔薇飾りがついた銀製リュトン
- 等身大のクーロス像、紀元前590-580年頃。メトロポリタン美術館(米ニューヨーク)所蔵
- 『ペプロスのコレー』紀元前530年頃、アクロポリス博物館(ギリシア)所蔵
- アフェア神殿の東側ペディメントにあったアルカイック後期の戦士像、紀元前500年頃
- アマサスの石棺、紀元前5世紀半ば。キプロスの古代都市アマサスより出土、メトロポリタン美術館所蔵。
古典期

古典期の初期段階からはオリジナルの遺物が少なく、これは古典前期[注釈 2]様式と呼ばれたりもする。当時の自立彫像は大半がブロンズ(当時は鉄くず程度の価値だった)で造られた。前期様式では紀元前500年頃にレリーフが、そして直後の紀元前480年-前450年頃に彫像が現れた。人物の比較的堅いポーズは、リラックスした非対称の旋回位置と斜めの視点が一般的になり、意図的に求められた。これは解剖学のさらなる理解と彫刻された人物の調和のとれた構造とが組み合わさったものであり、従来は存在しなかった目的としての自然主義的表現だった。1829年からのオリュンピア=ゼウス神殿の発掘調査が紀元前460年頃からの最も大規模な遺跡群を明らかにしており、その多くがルーヴル美術館にある[57][58]。
「盛期古典」期は紀元前450-前400年頃の数十年だけ続いたが、芸術面に多大な影響を与え、当初から現存例は非常に限られるものの、特別な威信を保っている。最も知られている作品がパルテノン神殿の大理石で、前465-425年頃に活躍した古代ギリシア彫刻家フィディアス率いる一団によって施工されたものである。また彼は古代世界の七不思議の一つであるオリンピアのゼウス像(巨大なクリセラファンティン、前432年頃)やアテーナー・パルテノス像、パルテノンの偶像、パルテノンの隣に立っていた巨大ブロンズ像のアテーナー・プロマコス像でも有名だった(これらはすべて失われたが、多くの記述から知られている)。彼はまた、エルメス・ルドヴィージを含む後世の複製品からのみ知られている幾つかの等身大ブロンズ像の製作者ともされている[59]。
盛期古典様式ではリアリズムが発展し続けて人物像は洗練を遂げ、ドレープ(服のひだ)の描写が向上、それを用いて動的ポーズの印象を付け足した。表情は、戦闘場面でも一般的にきわめて抑制された。レリーフやペディメントにおける人物集団の構成は、複雑さと調和の組み合わせであり、この手法は西洋美術に永続的な影響を与えた。レリーフは実際のところかなり高い浮彫りにあり、パルテノンでは戦士の脚の大部分が背面壁から完全に切り離されており、欠落部分も同様である。このような高浮彫りの部分は損傷を受けやすかった[60]。古典後期の様式では、プラクシテレスの革新と思われる女性の自立裸身像が発展し、さまざまな角度から見た時に興味をそそるさらに複雑で繊細なポーズや、より表現力豊かな顔を生み出した。どちらの傾向もヘレニズム時代でさらに展開されていった[61]。
ヘレニズム期
ヘレニズム期は、通例、紀元前323年アレクサンドロス大王の死から始まって、紀元前146年のローマによるギリシア中心地の完全征服または紀元前31年アクティウムの海戦後アレクサンドロス帝国に残った後継国家の最終敗北(すなわち共和制ローマの終焉)で終わりを迎える[62]。これは以前の時代よりもはるかに長期であるため、少なくとも2つの主な段階がある。実験性と活気に富み、ときに感傷性や通俗性も帯びる「ペルガモン」様式、そして紀元前2世紀には、より厳格な簡素さと優雅さを備えた古典回帰の傾向が現れた。こうした一般化はあるものの、特に後年の模刻だけが知られている場合(それが通例なので)年代判定は一般にかなり不確定である。最初のペルガモン様式はその名を冠するペルガモンと特に関連はなく、非常に裕福なその国の王族が最初に古典期の彫刻を蒐集したり模倣して、多くの新しい作品の制作を依頼した。そこには新様式の好例であるペルガモン祭壇や古代七不思議であるマウソロス霊廟、バチカン美術館所蔵の有名な『ラオコーン像』などがあり、後期の例としては『瀕死のガラティア人』がある。これは紀元前228年頃にペルガモンで制作を依頼された群像の一部であった青銅原作を、後世の大理石模刻によって伝えるものであり、同じ群像に由来する『ガラテア人とその妻』も後世の模刻である。『ファルネーゼの雄牛』と呼ばれる作品群は、恐らくオリジナルが2世紀の大理石でさらに大型かつ複雑だったという[63]。
ヘレニズム彫刻では表現される主題の範囲が大幅に広がった。これは全体的な繁栄の結果であり彫刻で飾られた大きな屋敷を持つ非常に富裕な階層も出現したが、家庭に最適と思われる主題(動物と一緒にいる子供など)の例が幾つか寺院や公共の場所に置かれていた事実が分かっている。広く普及した家庭用装飾品としてタナグラ人形や他の中心地より工業規模で生産された小さな陶製人形が存在しており、宗教的なものもあれば、動物を表したもの、優雅な衣裳を羽織った女性を表したものもあった。彫刻家は、さまざまな感情や個人の人柄を伝える表情を表現する熟練技術を有するようになり、異なる年齢や人種をも表現するようになった。霊廟のレリーフはこの点でやや例外的であり、当時の彫刻の多くは自立像であった。『ラオコーン像』やガリア人の勝利を祝うペルガモンのガリア人像群のように、丸彫りとして全周から鑑賞できる群像構成は従来稀だったが普及するようになった。『バルベリーニのファウヌス』は恐らく泥酔の後に眠りに落ちた牧神ファウヌスを表したもので、この時代に主題選択が広がったことを示す例であり、英雄には及ばない主題でも大型かつ高価な彫刻を作る環境が整ったことを示している[64]。
アレクサンドロスの征服後、ヘレニズム美術とその担い手は近東・中央アジア・イタリアへ広がった。現在のレバノンにあるシドンで発見されたアレクサンドロス石棺は、ヘレニズム文化を受容した支配者のために、ギリシア人彫刻家が制作したと考えられている[65]。
- 『リアーチェのブロンズ像』紀元前460-340年頃。海から回収された非常に珍しいブロンズ像
- 優雅な女性達。陶器像、紀元前350-300年
- 『馬のブロンズ像』紀元前2-1世紀。メトロポリタン美術館所蔵
- 『サモトラケのニケ』紀元前190年頃。ルーブル美術館所蔵
- 『ミロのヴィーナス』紀元前130-100年頃のギリシア。ルーブル美術館所蔵
- 『ラオコーン像』紀元前200-20年頃、ヘレニズム後期のギリシアだが恐らく模刻の大理石像。バチカン美術館所蔵
- 『ベルヴェデーレのアポロン』130-140年頃、ローマの模刻。オリジナルは、紀元前330-320年頃にレオカレスが作ったとされる。バチカン美術館所蔵
ギリシア時代後のヨーロッパ
ローマ彫刻

初期のローマ美術は、ギリシア美術および近隣にあるエトルリア美術(これ自体が貿易相手国ギリシアの影響を多大に受けた)からの影響を受けた。エトルリアの特色はほぼ等身大という墓用のテラコッタ肖像彫刻で、通常は石棺の蓋の上に横たわっていて、その当時は片肘を突き上げる食事の姿勢だった。拡大する共和制ローマがギリシア領土を征服し始めると、最初は南イタリアで、それからパルティアの極東を除くヘレニズム世界全体で、高官およびパトリキの彫刻が主にヘレニズム様式の延長線上のものとなった。特にローマ時代の模刻のみ現存しているギリシア彫刻が多いため、具体的にローマの要素を解きほぐすのは困難である[66][67]。紀元前2世紀までに「ローマで活動する彫刻家の大半」がギリシア人であり[68]、コリントスの征服(紀元前146年)などで奴隷にされた者も多く、大半がギリシア人かつ多くの場合奴隷でもあった彫刻家は、名前が記録されることが稀だった。戦利品や強奪または商取引の結果として、膨大な数のギリシア彫像がローマに輸入され、しばしば神殿が再利用のギリシア作品で装飾された[67][69]。
イタリア固有の様式は墓の慰霊碑で見ることができ、これはほとんどの場合裕福な中流階級ローマ人の肖像胸像で現れ、肖像は間違いなくローマ彫刻の主な強みである。名門諸家の葬儀での行列に身に着けたり、また普段は家に展示されていた先祖の仮面の伝統からは現存するものは何もない。ただし現存する多くの胸像は、恐らくスキピオ家の墓や後世では郊外の一族の墓や後世の郊外霊廟に収められた先祖の像を表すものに違いない。ルキウス・ユニウス・ブルトゥスと思われる有名な頭部ブロンズ像は年代に異論も多いが、共和制の下におけるイタリア様式のきわめて稀な現存するブロンズ媒体と見なされている[70]。同様に、共和制後期の硬貨にも厳格で力強い頭部が見られ、帝国時代には硬貨だけでなく地方都市のバシリカに設置されるため帝国周辺に送られた胸像が、帝国を喧伝する主な視覚形態だった。ロンディニウムにもネロの巨像に近いものがあった(とはいえローマにある高さ30mのネロの巨像よりはかなり小さい)が現在は失われてしまった[71]。

ローマ人は一般的に歴史や神話から出た英雄的偉業の独立したギリシア作品と競争しようとしなかった。しかし早い段階からレリーフで歴史的作品を製作しており、物語のレリーフが周りに連続で取り巻いているローマの戦勝記念柱で最高潮に達する。そのうちトラヤヌスの記念柱(113年)とマルクス・アウレリウスの記念柱(193年)がローマに現存しており、そこのアラ・パキス(平和の祭壇、紀元前13年)は最も古典的かつ洗練された公的なグレコ=ローマン様式の代表である。それ以外の主な例では、コンスタンティヌスの凱旋門で初期に再利用されたレリーフ、アントニヌス・ピウスの記念柱(161年)の基礎部分[72][73]、大理石レリーフの安価な陶器版であるカンパーナ・レリーフがあり、浮彫りの趣向は帝国時代から石棺にまで拡大された。豪華な小型彫刻のあらゆる形状が愛用され続け、銀製ウォレン・カップ、ガラス製リュクルゴスの聖杯そしてゲメ・アウグスティアやフランスの大カメオ[注釈 4]などの大型カメオにあるようにその品質は非常に高くなった[74][75]。人口の多い広域向けに、浮彫り装飾の施された陶製花瓶や小さな置物が大量かつしばしば相当な品質で生産された[74]。
2世紀後半の「バロック」段階を経て[76]3世紀になると、ローマ美術は古典的な伝統彫刻を概ね放棄したか、単に製作することができなくなった(変化の原因についてはさまざまな議論がある)。最も重要な帝国のモニュメントでさえ、当時は優雅さを削ぎ落して権力を強調する単純な構成であり、厳めしい正面向きでずんぐり体型の目の大きな人物像が見られた。対照をなす有名なものがローマにあるコンスタンティヌスの凱旋門(315年)および新首都コンスタンティノープルから来たテトラルキア四帝像(305年頃、現在はベネチアにある)である。エルンスト・キッツィンガーは、両方のモニュメントで同じ「ずんぐり体型、堅苦しい動き、対称性と繰り返しを介したパーツの順序づけ、塑像よりも彫り込みを経た容貌や裾ひだ折り込みの表現」を発見して「この様式の特徴はどこをとっても硬質感、重厚感、堅苦しさの強調で構成されており、即ち古典期伝統のほぼ完全な拒絶である」と述べた[77][78]。
様式におけるこの革命は、ローマ国家と大多数の人々によってキリスト教が採用された時代の直前に、大きな彫像が皇帝だけに使われて大規模な宗教的彫刻の終焉をもたらした。ただし、裕福なキリスト教徒はユニウス・バッススの石棺にあるような石棺のレリーフを依頼し続けており、非常に小さな(特に象牙の)彫刻は執政官のディプティク様式に基づいて、キリスト教徒により継承された[79][80]。
- エトルリアの石棺、紀元前3世紀
- 『ブルトゥス像』紀元前3-1世紀
- 『プリマポルタのアウグストゥス』紀元前1世紀、皇帝アウグストゥスの像。バチカン美術館所蔵
- デキウス氏族の墓のレリーフ、98-117年
- フランスの大カメオ、23年頃。アウグストゥスとその家族の寓話を描いたもの
中世初期とビザンティン


初期キリスト教はモニュメントのような宗教的彫刻に反対していたが、肖像の胸像や石棺のレリーフおよび執政官用ディプティクなどの小物でローマの伝統は続いていた。こうしたオブジェはしばしば貴重な素材で作られ、また(知られる限り)民族移動時代の主な彫刻の伝統であった。それは6世紀サットン・フーの埋葬宝物、スキタイ美術の宝飾品、インスラ美術のキリスト教と動物文様を組み合わせた造形物などに見られる。ビザンティンの伝統継承に続いてカロリング朝美術が象牙彫刻を復活させ、しばしば壮大な装飾写本の宝飾装丁用パネルのほか司教杖先端部や他の小型装具を復活させた。[81][82][83]
ビザンティン美術では象牙レリーフや建築装飾彫刻が発達した一方、モニュメント彫刻や丸彫りの小型彫刻は大規模には復興しなかった[84]。西欧ではカロリング朝・オットー朝期に宮廷や大教会で大型彫刻が再び制作され、10世紀末のゲロの十字架像はその重要な現存例である[85]。
- 象牙の大天使の象牙板、525-550年。コンスタンチノープル
- カロリング朝後期の象牙パネル。恐らくブックカバーを意図したもの
- 『アルバヴィルの三連板』10世紀半ば。象牙製
ロマネスク
1000年頃からヨーロッパ全域で(生産と商業における一般的な経済成長に主導されて)美術生産の全般的な再生があり、新たなロマネスク様式が西ヨーロッパ全域で使われる最初の中世様式となった。新しい大聖堂や巡礼者の教会はますます建築石のレリーフで飾られ、彫刻については12世紀に教会扉の上にあるティンパヌムそして人物や物語の情景を描写した柱頭 (建築)など、新たな焦点が生まれた。彫刻がある傑出した修道院付属教会には、フランスのヴェズレー教会やモワサック教会、スペインのシロス修道院などがある[86]。
ロマネスク彫刻では、教会扉上部のティンパヌムや柱頭に人物・物語場面を表す高浮彫りが広く用いられた。人物の大きさは重要性に応じて変えられ、建築の枠に合わせて構成された[87]。
この時期における象牙や金属といった貴重な素材のオブジェは、モニュメント彫刻よりもはるかに地位が高く、現在では画家や彩飾家や建築家(石工)よりも作り手の名前を知っている。琺瑯の装飾を含む金属作品は非常に洗練されてきて、聖遺物を納めるために作られた多くの壮大な聖櫃が現存しており、最も知られているものがニコラ・ド・ベルダンによるケルン大聖堂の三賢者の聖箱である。ブロンズ製のグロスター大聖堂の燭台や真鍮製の聖バルテルミーの洗礼盤(1108-17)が優れた例で、金属鋳造の様式は大きく異なる。前者は複雑で躍動的に造形され、洗礼盤では最も古典的かつ荘厳なモサン様式が見られる。ヒルデスハイム大聖堂にある青銅製の扉と戦勝記念柱、グニェズノ大聖堂のグニェズノの扉、ヴェローナにあるサンゼーノマッジョーレ教会の扉もまた別の重要な現存作品である。手を洗う水の容器(水差し)であるアクアマニールは11世紀にヨーロッパに導入されたと見られており、しばしば幻想動物の形状だった。現存例の大半は真鍮製である。ロマネスクの硬貨は一般的に美的関心がさほど大きくないが、優れた印判から押された蝋の印章は複数の憲章や文書に現存している[88]。
- 『聖バルテルミーの洗礼盤』1108-17年。イエスの洗礼を表したもの
- ガリシア州(スペイン)のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂にある『ポルティコ・ダ・グロリア』12-13世紀頃
ゴシック

ゴシック時代は基本的にゴシック建築によって定義されており、その始点も終点も彫刻における様式の発展とは完全に適合していない。大きな教会、特に扉周辺のファサードは大型のティンパヌムを持ち続けたが、その周囲にも人物彫像の列が広がっていった。シャルトル大聖堂の西側表玄関の彫像(1145年頃)は優雅ながら柱状の伸長を誇張して見せているが、南側袖廊玄関の彫像(1215-1220)はもっと自然主義的な様式で背後の壁からの剥離が大きく、古典的な伝統の意識も若干見られる。これらの傾向は数年後ランス大聖堂の西側表玄関で継続され、そこでは人物像がほぼ丸彫りになり、ゴシックがヨーロッパ全土に広がるにつれて一般的となった[89][90]
イタリアではニコラ・ピサーノと息子ジョヴァンニがしばしばプロト・ルネサンスと呼ばれる様式を発展させ、これはローマ石棺からの洗練された群衆構成の紛れもない影響を受けたもので、シエナ大聖堂説教壇(1265-68年)、ピサ洗礼堂説教壇(1260年)、ペルージャにあるマッジョーレ噴水、ジョヴァンニによるピストイアの説教壇(1301年)のレリーフに見られる[91][92][93]。もう一つの古典様式の復活は、1400年頃のフランスにおけるクラウス・スリューテルとその弟子による国際ゴシック様式の作品に見られる[94]。後期ゴシック彫刻は大型の木製祭壇の流行と共に北部で継続し、名工の彫刻と多数の表情豊かな人物像が増えていった。その多くがさまざまな場所で偶像破壊され、最も多くの現存作品はドイツにある。ティルマン・リーメンシュナイダー、ファイト・シュトースなどは16世紀に入ってからイタリアのルネサンスの影響を徐々に吸収した[95]
石やアラバスターでできた墓の等身大肖像は富裕層で人気を博し、壮大な複数層からなる墓廟へと発展し、ヴェローナのスカリジェレ家の霊廟は教会の外に移動させなければならないほど大きかった。15世紀までに、石の飾壁を買う余裕のない経済的に限られた教区向けに、英国ノッティンガム産アラバスターの祭壇レリーフをヨーロッパ各地へ輸出する産業が成立していた[96]。主に俗人向けで多くの場合女性市場向けの小型彫刻が、パリや他幾つかの中心地でかなり大きな産業となった。象牙彫刻の種類には、礼拝の小さな多翼祭壇、聖母子像、鏡匣、櫛、ロマンス文学の情景を描いたロマンス物語の棺など、結納品として贈呈されたものが含まれた[97]。非常に富裕な階層は、デュック・ド・ベリーのホーリー・ソーン聖遺物箱のような宝石と琺瑯を精緻にちりばめた世俗的かつ宗教的な金属作品を蒐集し、資金が不足すると溶解して現金化されることもあった[98][99]。
ルネサンス


正式なルネサンス彫刻は、1403年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂門扉の有名な競争から始まったとされることが多い(この優勝者ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキの提出した試作品が現存している)。ギベルティの扉は今も敷地内にあるが、別の入口にある彼の第二の扉『天国の門』によって名声の面では影を薄くしていることは疑いようもない。こちらは1425年から1452年にかけて彼の請け負ったもので、扉は広範な背景を可能にするさまざまな深さのレリーフを備えた、輝かしい自信に満ちた古典的構成である[100]。その間にギベルティ初期の助手ドナテッロが大理石(1408-09)と青銅(1440年代)のダヴィデ像、ガッタメラータ将軍騎馬像、ほかレリーフを含む精巧な彫像で彫刻史上重要な作品を制作した[101]。後世の第一人者がアンドレア・デル・ヴェロッキオで、彼はヴェネツィアにあるバルトロメオ・コッレオーニ騎馬像で最もよく知られている[102]。彼の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノのためにグラン・カヴァッロという巨大な馬の彫刻を設計したが、これは7.3mの粘土模型の作成に成功しただけで1499年にフランスの射手によって破壊され、また彼の他の野心的な彫刻計画は完成することがなかった[103]。
15世紀半ば以降、イタリアでは胸像を中心とする肖像彫刻が普及した。フランチェスコ・ラウラーナは若い女性の胸像を、アントニオ・ロッセリーノは多様な年齢や表情の肖像を制作した[7]。
ミケランジェロはおよそ1500年から1520年にかけて活躍した彫刻家で、『ダビデ』『ピエタ』『モーセ』などの偉大な傑作や、ユリウス2世の霊廟、メディチ家礼拝堂などの作品は後世の彫刻家に無視できないものとなった。彼の象徴的なダビデ像(1504)は古典期彫刻から借用したコントラポストのポーズである。ダビデ像は、巨人ゴリアテを倒した後ではなくその戦い前を描いている点で、旧来作品の主題表現とは異なる。ドナテッロやヴェロッキオの作品のように勝利を見せるのではなく、彼のダビデ像では緊張して戦いに臨む様子が見て取れる[104]。
- ルカ・デッラ・ロッビア作『カントリア』の一部拡大、1438年頃。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属博物館(フィレンツェ)所蔵
- ドナテッロ作『ユディトとホロフェルネス』1460年頃。ヴェッキオ宮殿(フィレンツェ)所蔵
- フランチェスコ・ラウラーナ作、女性の胸像(鋳造)
- アンドレア・デル・ヴェロッキオ作『聖トマスの懐疑』1467-1483年。オルサンミケーレ教会(フィレンツェ)所蔵
- ミケランジェロ作『瀕死の奴隷』1513-1516年頃
マニエリスム

イタリアの初期マニエリスム彫刻では、盛期ルネサンスの成果、とりわけミケランジェロの造形を踏まえながら、複雑な構成や多方向からの鑑賞を意識した作品が制作された。バッチョ・バンディネッリの『ヘラクレスとカークス像』は台座に浮彫りを組み込み[105]、ベンヴェヌート・チェッリーニの『メドゥーサの頭を持つペルセウス』は複数方向からの鑑賞を意識した構成を示す[106]。
収集棚向けの小型ブロンズ像は、しばしば(裸体を含む)神話的な主題であり、ルネサンス様式で人気を博した。ジャンボローニャがこの世紀の後半に才能を現し、等身大の彫刻も製作しており、うち2つはシニョーリア広場のコレクションに加わった。彼とその弟子は、多くの場合2人が蛇のように絡み合う細長い「フィグーラ・セルペンティナータ」の作品を考案した[107]。
- ベンヴェヌート・チェッリーニ作『メドゥーサの頭を持つペルセウス』1545-1554年
- ジャンボローニャ作『サムソンとペリシテ人』1562年頃
- ジャンボローニャ作『サビニの女たちの略奪』1583年。高さ4.1mの大理石像(イタリア、フィレンツェ)
バロックとロココ

バロック彫刻においては、人の集まりが新たな重要性と見なされ、人物の形にダイナミックな動きとエネルギーが備わり、彼らは何もない中央渦の周りに巻きこまれるように見えたり、外側へと周りの空間に手を伸ばしたりした。バロック彫刻にはしばしば複数の理想的な視野角があり、ルネサンスの全体的な継続を反映してレリーフから丸彫りの彫刻へと移行し、その像は広い空間の中央に配置するように設計されていた。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによる四大河の噴水(ローマ、1651年)やヴェルサイユ宮殿の庭にある噴水がバロック期の傑作である。バロック様式は彫刻と完全に合致しており、『聖テレジアの法悦』(1647-1652年)などの作品でベルニーニがこの時代を支配する人物だった[108]。バロック彫刻の大部分は彫刻とは別の要素(例えば、間接照明、噴水、建造物と融合した彫刻など)を追加しており、見る者に強い体験をもたらした。芸術家は自身を古典的伝統だと見なしていたが、今日見られるような「古典期」時代のものよりも、ヘレニズム彫刻やその後のローマ彫刻を賞賛した[109]。
宗教改革は北ヨーロッパの大部分で宗教的彫刻をほぼ停止させたが、世俗的な彫刻(特に肖像の胸像や墓の慰霊碑など)は続いており、オランダ黄金時代は金細工以外に重要な彫刻分野をほとんどもたなかった[110]。これに対する反応もあり、彫刻はローマカトリックで中世後期と同じくらい隆盛だった。支配者や貴族の像はますます普及するようになった。18世紀に入ると大半の彫刻がバロックの系譜で続き、1762年にトレビの泉が完成した。ロココ様式は小型の作品に適しており、欧州初期のポーセリン(磁器)では理想的な彫刻形式を見いだし、フランスの住宅内装やオーストリアやバイエルンの巡礼教会などで木彫や漆喰による室内装飾にも見られる[111]。
- アントワーヌ・コワズヴォ作『ルイ14世胸像』1686年
- ピエール・ピュジェ作『ペルセウスとアンドロメダ』1715年。ルーヴル美術館所蔵
- フランツ・アントン・ブステッリ作、ロココ期ニンフェンブルク宮殿のポーセリン作品群
新古典主義

18世紀には、ヘルクラネウムやポンペイなど古代遺跡への関心を背景に、古代ギリシア・ローマ美術に道徳的厳粛さを見いだす新古典主義が形成された。新古典主義の彫刻では、古代彫刻を想起させる白大理石が好まれたが、古代の大理石彫刻は実際には彩色されていた[3]。
- ベルテル・トルバルセン作『イアーソーンと金羊毛』1803年
- ジョン・フラクスマン作、バッジャー(英国)にある教会の慰霊碑、1780年。
アジア
グレコ仏教彫刻とアジア

グレコ仏教美術は、ギリシア古典期の文化と仏教間の文化的融合となるグレコ仏教の芸術的発現であり、これは中央アジアでアレクサンドロス大王による征服(前4世紀)からイスラームによる征服(7世紀)までの約1000年にわたって発展した。グレコ仏教美術は、ヘレニズム美術の強い理想主義的リアリズムと人間の姿をとる仏陀の初めての表現が特色で、これは現在に至るまでのアジア大陸全域における仏教芸術のための美術的(特に彫刻での)規範を定義するのに役立っている。年代は不確定だが、地中海周辺で衰退してから数世紀をかけて、遅くとも5世紀には強いヘレニズム様式が東方に広がったと見られている。ギリシア美術の一部特徴が取り入れられたが、それ以外はグレコ仏教地域を越えて普及しなかった。特に立像はリラックスしたポーズや片足屈曲(飛翔する姿勢)が多く、後者は天女としてアジア全域に普及した。ギリシアの葉状装飾も影響を及ぼし、コリント式のインド的な変形が登場した[112][113]。
グレコ仏教美術の起源は、現在のアフガニスタンにあたるグレコ・バクトリア王国(紀元前250-前130)のヘレニズムに見られ、そこからのヘレニズム文化がインド亜大陸に流入して小さなインド・グリーク朝(紀元前180-前10)が興った。インド・グリーク朝やその後のクシャーナ朝(1-3世紀)のもと、ギリシア文化と仏教文化の相互作用はガンダーラ地域(現在のパキスタン北部)で開花し(ガンダーラ美術)、さらにインドへと広まってマトゥラーの芸術やその後グプタ朝のヒンドゥー芸術に影響を及ぼし、これが東南アジアの向こうにまで拡大していった。グレコ仏教美術の影響は中央アジアに向かって北に広がり、タリム盆地や敦煌洞窟の芸術に強く影響を及ぼし、最終的には中国、韓国、日本の人物彫刻にも影響を与えた[112][114]。
- 風神ボレアースの断片。ハッダ (アフガニスタン)遺跡出土
- 紀元前200-180年頃に君臨し、インド北部に侵攻したデメトリオス1世 (バクトリア王)の貨幣
- 以前は彩色されていた仏陀頭部のスタッコ、3-4世紀。ハッダ遺跡 (アフガニスタン)出土
- ガンダーラのポセイドン。古代オリエント博物館所蔵
中国

殷・西周の儀礼用青銅器には複雑な文様や動物形象が鋳出され、後代の中国美術にも大きな影響を与えた[115]。兵馬俑以後も、陶器や木で作られた副葬用小像は墓に納められ、唐代の唐墓副葬像に至って高度な展開をみせた[116]。
中国在来の宗教は、一般に神々の偶像を大規模に用いる伝統が弱く、大型の宗教的彫刻はほぼ全てが仏教で、主に4世紀から14世紀にかけてシルクロードを経由して到着したグレコ仏教の模型を当初使っていた。また仏像は、あらゆる大型肖像彫刻の文脈でもある。他の地域とは対照的に、中世の中国では皇帝を描いた図像ですら私的なものと見なされた。皇帝陵には、実在動物および神話上の動物像が並んでエジプトに匹敵する規模の壮大な墓地参道があり、小型の像は寺院や廟を飾っている[117]。
小型の仏像や群像はさまざまな素材で制作され[118]、金属細工や翡翠細工にもレリーフ装飾が広く用いられた[119]。一方、士大夫の画家とは異なり、彫刻家は職人とみなされ、名が記録される例は少なかった[120]。
日本

日本に現存する最古級の彫刻としては、縄文時代の土偶が挙げられる。日本大百科全書は、土偶を魔除けや出産に関わる呪物として位置づけ、続く古墳時代には埴輪が葬送儀礼用に古墳を飾るようになったと説明している[1]。これらは仏教文化の輸入以前に成立したもので、日本における彫刻の原初的な感覚を示すものとされる[1]。
飛鳥時代には、仏教公伝に伴って大陸から仏教彫刻の技法が伝わり、渡来系の技術者を中心として仏像が制作された。代表作には法隆寺金堂釈迦三尊像、救世観音像、百済観音像、中宮寺・広隆寺の弥勒菩薩像などがある[1]。奈良時代には、木彫、塑造、乾漆、鋳造の諸技術が発達し、薬師寺の薬師三尊像、興福寺の十大弟子像・八部衆像、東大寺法華堂の諸像、唐招提寺の鑑真像など多くの仏像が制作された[1]。
平安時代には塑像や乾漆が衰え、木彫が盛んになった。前半期のいわゆる貞観彫刻では、一木から体躯の主要部を刻む一木造が特徴となり、密教の影響を受けた力強い像も多く作られた[1]。平安後期には和様化が進み、定朝が平等院鳳凰堂阿弥陀如来像に代表される定朝様を確立した。定朝はまた、従来の一木造に対し、複数材を組み合わせる寄木造の造像法を完成させたとされる[1]。鎌倉時代には写実的な彫刻が復活し、運慶、快慶、湛慶、康弁らの慶派仏師が個性的な作品を残した[1]。
室町時代・桃山時代には、仏像彫刻に加えて能面や建築装飾彫刻が発達し、欄間などに豪華な浮彫りや透彫りが行われた。この傾向は江戸時代にも継承され、日光東照宮の装飾彫刻は代表例の一つである[1]。また江戸町人文化のなかでは、印籠、根付、櫛、簪などの日用品・装身具に、人物や鳥獣を表す精細な彫刻が施された[1]。
近代には、1876年(明治9年)にイタリア人ラグーザが来日し、工部大学美術学校で塑造や大理石彫刻など西欧の技法を伝えた。1887年には東京美術学校が開かれ、フェノロサや岡倉天心によって日本古来の木彫が再認識され、1898年には同校に塑造科も設けられた[1]。第二次世界大戦後は、抽象彫刻の出現、素材の多様化、野外彫刻や都市空間との関係の拡大が進み、木・石・ブロンズに加えて鉄、ステンレス、アルミニウム、セメント、プラスチック、ガラス、廃材や器物なども用いられるようになった[1]。
インド
インド亜大陸で既知の最初の彫刻は、現在のパキスタンにあるモヘンジョダロやハラッパー遺跡で発見されたインダス文明(紀元前3300-1700年)のものである。これには有名なブロンズ製の踊り子像や神官王像が含まれる。しかし、こうしたブロンズ像や石像は稀であり、陶器の置物や石印の方が数多く、動物や神々がしばしば非常に精細に描かれている。インダス文明の終焉後、ダイマバード出土の紀元前1500年頃(若干の論争あり)の銅像群を除けば、仏教時代まで彫刻の記録はほとんどない[121]。そのためインドでの石のモニュメント彫刻の伝統は他の文化との関連で始まったと見られており、インド文明の発展は比較的遅く、紀元前270-232年までのアショーカ王治世にインド周辺に建てられたアショーカ王碑文の石柱(彼の法勅が刻まれ、柱頭には主に獅子などの動物彫刻があったことで有名)のうち6本が現存している[122]。大量の具象彫刻は、主にレリーフで、初期仏教の巡礼用(とりわけサーンチーの)仏塔からのものが現存している。これらは恐らくヒンドゥー教も取り入れた木材使用の伝統から発展したものである[123]。
1-3世紀におけるマトゥラーのヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教の桃色砂岩彫刻は、インド生来の伝統とガンダーラのグレコ仏教美術を通じて受けた西洋の影響を双方とも反映しており、その後のインドの宗教的彫刻の基礎を効果的に確立した[123]。この様式はインド彫刻にとって「古典」時代であるグプタ帝国(320-550年頃)の下で発展および普及していき、ここにはエローラ石窟群[124]および僅かに後世だがエレファンタ石窟群が含まれる[125]。後世の大規模な彫刻はほぼ全てが宗教的なもので、全般的にかなり保守的で、神々は単純な正面立ち姿に戻ることが多かった(ただしアプサラスやヤクシニー (夜叉)などの付随的な精霊は官能的にくねるポーズをとることも多かった)。その彫り方は多くの場合非常に精細で、主神の背景が入り組んだ高浮彫りだった。南インドで見つかったチョーラ朝( 850-1250年頃)の有名なブロンズ像は、多くが行進で運ばれるように設計されており、シヴァの象徴的な形ナタラージャ像が含まれるほか[126]、前代パッラヴァ朝に遡るマハーバリプラムの巨大な花崗岩彫刻もある[127]。
東南アジア

東南アジアでは、アンコール・ワットをはじめとするクメールのヒンドゥー教・仏教寺院、ジャワ島のボロブドゥール寺院遺跡群、バリ島のヒンドゥー教寺院などで、丸彫り像と多数のレリーフを組み合わせた大規模な彫刻装飾が展開した[128]。
タイ、ラオス、ミャンマーなど大陸部東南アジアでは、仏教彫刻が寺院・修道院・私的礼拝の文脈で重要な役割を占めた。木材・漆・金箔などの素材が用いられたが、保存状況は素材や地域環境によって大きく左右される[129]。
- ボロブドゥール寺院遺跡群のレリーフ、インドネシア760-830年頃。
- ボロブドゥール寺院遺跡群の毘盧遮那仏像。インドネシア、760-830年頃
- 擬人化された埋葬用甕棺、フィリピンサランガニ州マイタム出土、前5-370年頃
- ブロンズの観世音菩薩像、ペラ州(マレーシア)のビドール出土、8-9世紀頃
- アグサン像、南アグサン州(フィリピン)出土、9-10世紀
- サリマノック像、ラナオ(フィリピン)出土
- ジャヤーヴァルマン7世頭部像、カンボジア、12世紀後半のクメール王朝美術
- アーナンダ寺院の仏像、バガン(ミャンマー)、1105年頃
- 天馬ブラークのイスラム彫刻、フィリピン南部
- ワット・シーチュム (スコータイ)のアチャナ仏、大きなスコータイ仏坐像、タイ、14世紀頃
- ホープラケオ寺院の「大地を見下ろす仏像」、仏陀の印相(手の形)は触地印。ビエンチャン(ラオス)
イスラーム文化圏

イスラーム教の布教が始まる直前のアラビアでは神像を使用した宗教的儀式が盛んであり、その神像は例えば、石の彫刻像などであった[20]。イスラーム教はこうした神像を「偶像」と呼び、その宗教伝統を「偶像崇拝」として厳しく批難した[21]。このような歴史的文脈を持って成立した宗教であるため、この宗教の影響下にあった文化圏では造形美術の発展が抑制された[20][21]。しかしクルアーン中に「造形すること」を明示的に禁じる言葉は存在せず、造形美術に対してどのような態度をとるかは、各時代・各地域の為政者や知識人に解釈・判断が委ねられた[21][22]。例えば、マグリブ西方イスラーム世界では厳格な態度が取られてきたのに対し、ペルシアやインドでは緩やかであった[21]。造形表現の形態によっても異なり、立体的造形表現(ティムサール)、特にスタンドアローンで成立しているような形態の表現は忌避された[20]。アラビア語では平面的な造形表現をタスウィール taṣwīr といい、立体的な造形表現をティムサール timthāl というが、壁面レリーフやファサード飾りはタスウィールにカテゴライズされる[21]。動植物に象る立体彫刻であっても壁面レリーフやファサード飾りの一部を構成する限りは許容された[21]。造形表現の置かれる文脈によっても解釈は影響を受け、公的空間に置かれるような宗教的な聖画や聖像の類は偶像崇拝と紛らわしいため一切制作されなかったが、権力者や富裕な市民が私的空間で使用する実用物に彫刻される場合には宗教的規制の及ばないことも頻々であった[21][22]。
レリーフや透かし彫りにおける彫刻の大部分はアラベスクの装飾で、野菜のモチーフに基づきながらも幾何学的文様の傾向がある。ごく初期のムシャッター宮殿のファサード(740年代、現在は大半がベルリンにある)では、高浮彫りで密集したアラベスクの中に動物がおり、浅浮き彫りでは動物や人間の像が後世の多くの装飾と関連して、金属細工、象牙、陶器などのさまざまな素材で見つかっている[130]。
丸彫りの動物像は、そのオブジェが明らかに実用的であれば私的な文脈で使われるものとして受け入れられることも多く、そのため中世のイスラム美術には多くの金属動物像が、水差し、香炉、噴水の土台(アルハンブラ宮殿の有名な噴水を支える石のライオンなど)等に見られ、中世イスラム最大で知られる動物像ピサのグリフィンで最高潮に達する。同様に、短剣の柄や杯などの高級な貴石彫刻も動物形状を取る(特にムガル美術だと)場合がある。厳格なイスラム規則でのこうした緩和容認の程度はその時期や地域によって異なり、イスラム圏スペイン、ペルシア、インドがしばしば緩和をもたらした[131]
アフリカ


歴史的なアフリカ彫刻の多くは木材などの有機素材で作られたため、古い作品は現存しにくい。人物像と仮面は多くの地域で重要な造形形式となり、用途や儀礼に応じて様式が異なった[132]。仮面は宗教儀礼に用いられる一方、近現代には観光客向けの商品としても制作されている[133]。
クシュ王国のヌビア(現:スーダン)は、エジプトと密接かつしばしば敵対的接触しており、様式が大きく派生したモニュメント彫刻を北方で制作した。西アフリカにて最初期で知られている彫刻は、紀元前500-西暦500年にかけて繁栄したノク文化(現:ナイジェリア)の彫刻で、粘土像は通常細長い体と角ばった形状である。その後の西アフリカ文化は、宮殿を飾るレリーフのためのブロンズ鋳造を生み出し、中でも12-14世紀にヨルバ人の町イフェ周辺で出土したテラコッタと金属でできた非常に優れた王族の頭部像やベニン・ブロンズが有名である。アカンの分銅は、1400-1900年にかけて制作された小さな金属彫刻の一種で、一部は明らかにことわざを表現したものでアフリカ彫刻の中では珍しい物語的な要素があり、王族のレガリアには印象的な金彫刻の要素が含まれていた[134]。
西アフリカから中央アフリカにかけての彫刻には、宗教儀礼、祖先崇拝、王権表象、仮面舞踊などと結びつく木彫や金属造形が多く見られる。これらは単なる造形物ではなく、儀礼の場や社会的文脈の中で意味をもつものとして制作・使用された[129]。
- ノク文化のテラコッタ、前6-6世紀。
- イフェの頭部テラコッタ像、恐らく12-14世紀。
- ヨルバ人の頭部ブロンズ像、イフェ(ナイジェリア)。12世紀
- 「女王母」彫刻、ベニン王国出土、16世紀
- 象牙の仮面、ベニン王国出土、16世紀
- ベニン・ブロンズ、16-18世紀。ナイジェリア
- 仮面、19世紀。ブルキナファソ
- マンビラ族の像、ナイジェリア
エチオピアとエリトリア
エチオピアとエリトリアの彫刻製作は、古代のダモト王国とアクスム王国に遡ることができる。キリスト教芸術は、4世紀のアクスム王エザナの治世期に土着信仰からの宗旨替えでエチオピアで築かれた[135]。キリストの像はアクスム王国期および後の時代に教会を飾った[136]。例えば、ラリベラでは等身大の聖人像がベト・ゴルゴタ教会に彫られた。教会は12世紀ザグウェ朝の統治者ゲブレ・メスケル・ラリベラ治世で伝統的に作られたが、それらは15世紀ソロモン朝期に製作された可能性が高い[137]。ただし、入り組んだ彫刻を含むラリベラの岩窟教会群の一つ聖ゲオルギウス聖堂は、10-13世紀に建てられたことが考古学によって証明された[138]。
スーダン
古代のスーダンにおける彫刻の発展は、紀元前2500年頃より始まるケルマ文化の単純な陶器からクシュ王国のモニュメント彫刻や建築まで、その最終段階ではメロエ王国時代の350年頃(エチオピアのアクスム王国による征服)まで続いた[139][140]。陶器以外にも、ケルマ文化では金牛の蹄をベッドの脚に見立てた彫刻の家具が作られた[139]。クシュ王国時代の彫刻には、全身の(特に王と女王の)彫像、小立像(王の侍従を描いたものが最も一般的)、石のレリーフなどがあり、これらは同時代の古代エジプト彫刻の伝統の影響を受けた[141][142]。
アメリカ大陸
現在のラテンアメリカにあたる地域の彫刻は、北のメソアメリカと南のペルーを中心とするアンデス地域で異なる展開をみせた。両地域では石彫に加えてテラコッタや金属の技法も発達し、メソアメリカではモニュメント彫刻と浅浮彫り、アンデスでは比較的小型の精巧な作品が制作された[143]。
先コロンブス期
- 赤ん坊の小像、紀元前1200-900年のオルメカ文明
- 翡翠の仮面、紀元前1000-600年のオルメカ文明
- 巨石人頭像No. 3、紀元前1200-900年のオルメカ文明
- ラ・モハーラの石碑1号、2世紀
- チャルチウィトリクエ像、テオティワカン出土、200-500年。
- テオティワカンの仮面、200-600年。
- 羽の生えたヘビ[注釈 5]の像、テオティワカンにある神殿の一部。200-250年
- パレンケ王キニチ・ハナーブ・パカル1世の像、マヤ、603-683年
- パレンケ王アーカル・モナーブ3世の像、8世紀
- キニチ・ウパカルの像、パレンケ、8世紀
- ハイナ島様式の小像(マヤ人)、650-800年
- ベラクルス古典文化の顔面像、600-900年
- トゥーラ遺跡の戦士像、1000年頃
北米

北米では、トーテムポール、仮面、家庭用品、戦争用カヌー、ほかさまざまな用途のために木材が彫刻され、異なる文化や地域間で独特の多様性があった。最も発展した様式は北西海岸美術のもので、ここで精巧で高度に様式化された一群の様式が発展を遂げ、現在も続く伝統の基礎を形成している。有名なトーテムポールに加えて、塗装および彫刻されたロングハウスは、内側と外側に彫刻された柱であったり故人の像や物品によって補完されていた。極北のイヌイットの間でも、象牙や石鹸石での伝統的な彫刻様式が現在も続けられている[144]。
ヨーロッパのカトリック文化の到来後、現地の職人や芸術家はバロック様式を受容し、先住民の造形伝統と組み合わせたレタブロや教会装飾を制作した[145]。
ヨーロッパ人到来後の北米では、先住民の木彫・仮面・トーテムポールなどの伝統に加え、ヨーロッパ系社会では植民地期以後、教会装飾、記念碑、公共建築の装飾、20世紀以降の抽象的公共彫刻などが展開した[146][3]。
- オーガスタス・セント=ゴーデンス作『ロバート・グールド・ショー記念像』1884-1897年。石膏製
- フレデリック・レミントン作『The Bronco Buster』1895年(鋳造は1918年)。メトロポリタン美術館所蔵
- ポール・マンシップ作『Dancer and Gazelles』1916年。ワシントンD.C.のスミソニアン・アメリカ美術館所蔵
19世紀-20世紀初頭、初期モダニズムと写実主義の継続

19世紀末から20世紀初頭にかけて、オーギュスト・ロダンは人体の表面、動勢、心理的表現を重視する造形によって近代彫刻に大きな影響を与えた[147]。
近代古典主義の周辺には、装飾性の強いアール・デコ、抽象化された具象表現、ゴシック的な表現性、ルネサンス回帰など、複数の傾向が併存した[148][149]。
- ジャン=バティスト・カルポー作『ウゴリーノとその息子たち』1857-1860年。メトロポリタン美術館
- オーギュスト・ロダン作『考える人』1902年。ロダン美術館 (パリ)
- アントワーヌ・ブールデル作『Day and Night』1903年の大理石像。パリのブールデル美術館
- カミーユ・クローデル作『ワルツ』1905年。 2度目の鋳造
- アリスティド・マイヨール作『夜』1909年。パリのテュイルリー庭園
モダニズム

20世紀の彫刻では、伝統的な人体表現や石・青銅を中心とする素材観から離れ、抽象化、構成、既製品の利用、異素材の組み合わせ、キネティック彫刻、アッサンブラージュ、インスタレーションなどが展開した[3][149]。

20世紀初頭以降、異なる物体や素材を組み合わせる構成的な作品、既製品や発見物を用いる作品、作家の概念や設計を重視する作品などが現れ、彫刻の媒体と制作方法は拡張された[3][149][146]。
20世紀初頭、コンスタンティン・ブランクーシは自然主義的な再現から離れ、形態を単純化・抽象化した作品によって後世の抽象彫刻に影響を与えた[149]。その影響は、ヘンリー・ムーア、アルベルト・ジャコメッティ、フリオ・ゴンサレス、ジャック・リプシッツらの造形にも認められる[146]。
1950年代以降、モダニズム彫刻は公共空間にも広がり、抽象形態や環境的構成を含む大型の公共委託が増加した。パブロ・ピカソのシカゴ・ピカソのような作品は、記念碑的彫刻が歴史的人物像に限られないことを示す例である[3][146]。
1950年代後半から1960年代にかけて、抽象彫刻家は鋼材、廃材、工業素材、光、音、映像、運動などを含む多様な素材・要素を導入し、作品と空間・鑑賞者との関係を拡張した[3][146]。
1960年代までに、抽象表現主義と幾何学的抽象化とミニマリズム(これは彫刻を最も本質的かつ基本的な特徴にまでそぎ落とす)が中心的な潮流となった。この時代には、デイビッド・スミスのCUBI 作品群、アンソニー・カロの溶接鋼作品、ほか多種多様な彫刻家による溶接彫刻、ジョン・チェンバレンの大型作品、マーク・ディ・スヴェロによる環境インスタレーション規模の作品などがある。その他のミニマリストには、トニー・スミス、ドナルド・ジャッド、ロバート・モリス、アン・トゥルイット、ジャコモ・ベネヴェッリ、アルナルド・ポモドーロ、リチャード・セラ、ダン・フレイヴィン、カール・アンドレ、ジョン・セイファーなどがいる[3]。
1960年代から1970年代には、抽象彫刻の展開と並行して、様式化された具象彫刻も継続し、古典的な人体表現や記念碑性を再解釈する作品が制作された[149][146]。
- アメデオ・モディリアーニ作『女性頭部像』1911-12年。メトロポリタン美術館
- オットー・グートフロイント作『チェリスト』1912-13年
- マルセル・デュシャン作『泉』1917年
- ジェイコブ・エプスタイン作『Day and Night』1928年。ロンドン地下鉄本社のために製作された彫刻
- ケーテ・コルヴィッツ作『The Grieving Parents(悲嘆に暮れる両親)』1932年。(息子ピーターに向けた)第一次世界大戦追悼碑、フラーデスロー・ドイツ軍戦没者墓地
- ジャック・リプシッツ作『ミューズの生誕』1944-1950年
- バーバラ・ヘップワース作『Monolith-Empyrean』1953年
- ジョン・チェンバレン作『S』1959年。ワシントンD.C.のハーシュホーン博物館と彫刻の庭
- アレクサンダー・カルダー作『Crinkly avec disc rouge』1973年。シュトゥットガルトの宮殿広場(Schlossplatz)
- ルイーズ・ネヴェルソン作『大気と環境 XII』1970-1973年。フィラデルフィア美術館
- アンソニー・カロ作『Black Cover Flat』1974年。鋼鉄、テルアビブ美術館
- ジョアン・ミロ作『Dona i Ocell(女性と鳥)』1982年。スペインのバルセロナ
- ルイーズ・ブルジョワ作『Maman』1999年。ビルバオ・グッゲンハイム美術館の屋外
現代の動向


また1960年代から1970年代にかけて、映像、光、環境、既製品、パフォーマンス的要素を組み込む彫刻的実践が広がり、従来の自立彫刻とインスタレーション、環境芸術、メディア芸術との境界は曖昧になった[3][146]。
コンセプチュアル・アートでは、作品の物質的形態や美的効果よりも、作品を成立させる概念や思想が重視される。こうした傾向は、作品そのものを作家が直接制作するのではなく、構想や指示を通じて成立させる制作方法とも結びついた[3][146]。
ミニマリズム
- トニー・スミス作『Free Ride』1962年。6'8 x 6'8 x 6'8(標準的な米国のドア開口部の高さ)、ニューヨーク近代美術館
- ラリー・ベル作『無題(Untitled)』1964年。金メッキの真鍮にビスマス、クロム、金、ロジウム。ハーシュホーン博物館と彫刻の庭
- ドナルド・ジャッド作『無題(Untitled)』1991年。エルサレムのイスラエル博物館美術館の庭
ポストミニマリズム
- ジャン=イヴ・ルシュヴァリエ作『Fettered wing』1991年
- アニッシュ・カプーア作『世界がひっくり返る(Turning the World Upside Down)』2010年。イスラエル博物館
- レイチェル・ホワイトリード作『ホロコースト記念碑(Holocaust Memorial)』2000年。ウィーン(オーストリア)
- マンフレッド・キールンホーファー作『Guardians of Time』2010年。光の彫刻。光の芸術ビエンナーレ(オーストリア)
- ダブリンの尖塔、正式名称は『光のモニュメント(Monument of Light)』。ステンレス鋼、高さ121.2m(398フィート)という世界有数の高い彫刻
現代彫刻の諸分野

一部の現代彫刻は、環境芸術や環境彫刻として、しばしば鑑賞者の視野全体に広がる屋外空間で展開される。光の彫刻、路上彫刻、サイトスペシフィック・アートもまた環境を利用することが多い。キネティック彫刻は動くよう設計された彫刻で、モビールが含まれる。音・光・映像を組み込む作品や、空間全体を変容させるインスタレーションも、彫刻概念の拡張として扱われる[3]。

