井上政次 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代前期生誕 慶長7年(1602年)死没 慶安3年8月22日(1650年9月17日)戒名 心性院宗桂日悟[1] 凡例井上政次時代 江戸時代前期生誕 慶長7年(1602年)死没 慶安3年8月22日(1650年9月17日)戒名 心性院宗桂日悟[1]藩 下総高岡藩世嗣氏族 井上氏父母 井上政重妻 井上正友娘子 政清、政実、政則、政勝、政明、井上某室テンプレートを表示 井上 政次(いのうえ まさつぐ)は、江戸時代前期の下総国高岡藩[注釈 1]の世嗣。初代藩主井上政重の嫡男であったが、父に先立った。 慶長7年(1602年)、井上政重の嫡男として誕生[1]。元和4年(1618年)に徳川家光に拝謁し、使番を務める[1]。 島原の乱に際しては、上使となった父とともに寛永15年(1638年)1月3日に島原に派遣された[1]。寛永18年(1641年)12月13日に番をゆるされる[1]。寛永19年(1642年)8月27日、鎌倉で暮らしていた英勝院(徳川家康の側室)[注釈 2]が死去したことに伴い、鎌倉に赴いて賻銀(将軍家からの弔慰金)を届けた[1]。 慶安3年(1650年)8月22日、父に先立って死去した[1]。享年49[1]。井上家の家督は、政次の長男・井上政清が継ぐこととなる[1]。 系譜 特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[2]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。 父:井上政重(1585-1661) 母:不詳[1] 正室:井上正友娘[1][3][注釈 3] 長男(1):井上政清[1](1628-1675) - 井上家の家督を継承。 次男(2):井上政実[4] - 半十郎。徳川家綱付きとなるが、16歳で死去[4]。 三男(3):井上政則[4](政春[5]) - 源蔵。家綱の小姓となる。1000石の旗本家の祖となる[5]。 四男(4):井上源八郎[4] 女子(5) - 井上兵部(水戸家家臣)の妻[4] 五男(6):井上政勝[4] - 源助。家綱に御目見するが、21歳で死去[4]。 六男(7):井上政明[4] - 伊織。御書院番組頭を務める。500石の旗本家の祖となる[6]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 井上家は当時定府の大名で、所領は上総・下総両国に分散しており、下総高岡を居所と定めるのは3代藩主井上政蔽(政次の孫)の時代である。 ↑ 英勝院は太田康資の娘で、太田重正の妹とされる。政次の父・政重の正室は太田重正の娘であり(ただし政次の生母ではない)[1]、井上家と英勝院は親族にあたる。 ↑ 正友は政重の兄であるため[3]、政次の従姉妹にあたる。 出典 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.253。 ↑ 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.253-254。 1 2 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.241。 1 2 3 4 5 6 7 8 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.254。 1 2 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.257。 ↑ 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.259。 Related Articles