重正の父とされる太田康資は、江戸城築城で知られる太田道灌の曾孫である。しかし、重正が康資の実子とする確証はない、とする説がある。康資の確実な実子の駒千代は後北条氏の人質となっていたが、康資が後北条氏から離反した際に、駒千代の外大伯父の北条氏康の手勢に追い詰められ自害させられ、伊豆国熱海の医王寺の境内に駒千代の墓所とするものが現存する。また、妹の英勝院も通常は康資の娘とされているが、この出自もまた重正同様に確証がない。太田氏の家系図に対して、嫡子の資宗の代の頃に何らかの改竄が行われたとする説がある。さらに重正の初名が「資綱」とされることから、母とされる法性院の実父の遠山綱景と縁続きがある出自とされる異説もある(いわゆる遠山氏出身?)。
その一方で、黒田基樹は康資が存命中の天正7年(1579年)の文書[2]に重正の仮名が「六郎」として登場していることを指摘している[3]。これに従えば、重正の出自の疑義は解消されることになるという。