井上高清の初見史料は天正13年(1585年)5月23日付のもので、秀長が和泉支配のため南郡・日根郡の代官に任じた人物として「いのうゑげん五」と記録されている。この頃すでに秀長家の重臣として位置づけられており、前段階から秀長に仕えていたと推測される。
高清は初め奈良町の井上町に居住し、のちに秀長の命で南都町司となり、後に椿井町へ移り住んだとされる。秀長が郡山城へ入部した天正13年、井上高清が代官として奈良支配に入ったことが、後世奈良奉行の前身と位置づけられている。
『駒井日記』によれば、井上源五は「天正の時分より南都奉行を勤め、秀長没後は太閤秀吉より任命され、五年まで勤め、同年に病死」とある。また、その知行は1000石で、奈良中の地子も拝領し、米高にして3496石、当時の石高換算では1万石に相当したと記されている。
奈良支配を巡る町政との摩擦も記録されている。天正19年(1591年)10月、南都の買人金銀両替をめぐり争論が起こると、高清は私党結成とみなし、その張本人ら一族60余名を捕縛し、同月20日、般若坂で50余名を磔に処した。
さらに、天正20年(1592年)には奈良町衆が秀吉側近の木下吉隆に対し13か条の直訴状を提出したが、その第4条では高清が秀長死後に500枚の金子を元手に町衆へ貸付を行い、その利息を金商人を通じてすべて取得していたと訴えられた。この争論は町衆側の勝訴に終わったとされる。
高清は晩年に南京奉行を務め、慶長5年(1600年)6月18日に死去した。
『久政茶会記』には天正13年12月21日に初めて登場し、秀長が奈良で茶会を催すときは中坊で行っているので、茶会記からも確かに秀長によって政策的に取り立てられた人物で有ることがわかる。しかし井上源五は中坊源五と呼ばれていること、他の家臣のように「郡山中坊源五」などとは記載されないことから、厳密に言えば秀長の家臣とは見做さないと考えられている 。