井土ケ谷
横浜市南区の地名
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地理
歴史
戦国時代から見られる地名で、井出ケ谷、井土ヶ谷、井土谷とも書かれた[注釈 1]。『新編武蔵風土記稿』によると「此地殊に地窪なるゆえ、井戸谷の名起りしと云う。或云、鎌倉将軍時代村内に清冽の井にありし故起りし」とある[3][2]。また、同書によると江戸から9里、東西10町・南北5町ほどで家数は47軒[2]。地内を金沢道と鎌倉往還が通った[2]。大岡川支流の永田川・六ッ川に挟まれた低地に位置し、引越村の溜池からの農業用水も利用できたことから水利に恵まれ、水田が多くつくられた[4]。横浜港が開港して間もない1863年10月14日(文久3年9月2日)には、攘夷派の浪士がフランス士官を襲撃・殺害した井土ヶ谷事件が発生した[5]。
1889年(明治22年)4月1日、井土ヶ谷村とその周辺の堀之内村、蒔田村、下大岡村、上大岡村、弘明寺村、永田村、引越村、中里村、別所村、最戸村、久保村が合併して久良岐郡大岡川村が成立し、井土ヶ谷はその大字となる[6]。1891年(明治24年)には鳥山肥料第一工場、1911年(明治44年)には豊田化製場などができた[4]。1911年4月1日に横浜市に編入、横浜市井土ケ谷町となる。鎌倉街道沿いは古くから発展していたが、大岡川で隔てられていたため大正時代までは農村風景が広がっていた[7]。1914年(大正3年)、3代目井上良斎は東京の浅草橋場町からこの地に陶窯を移し、「良斎焼」を始めた[8]。1921年(大正10年)には、弘明寺町にあった遊廓から芸妓の置屋の一部が移ってきた[9]。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では家屋の倒壊があったが火災は免れたため、横浜市中心部から多くの人が移り住んだ[7]。震災復興事業として井土ヶ谷通町線などの街路が整備された。1927年(昭和2年)10月1日には区制施行により中区の町名となる。1930年(昭和5年)には湘南電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が開通し井土ヶ谷駅が開設された[4]。1936年(昭和11年)11月1日には井土ケ谷町を廃止し、新たに井土ケ谷上町・井土ケ谷中町・井土ケ谷下町が設けられた[10][1]。左記3町は、1943年(昭和18年)12月1日に中区から南区が分区したことに伴い、南区に編入された。

