亦里于
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概略・歴史
クビライがカアンに即位して4年後の至元元年(1264年)11月辛巳(11月30日)、サハリンにいるニブフの吉里迷(ギルメイ)がサハリン南部や北海道にいた骨嵬と亦里于が毎年のように境界を侵すという苦情をクビライに報告すると、モンゴル軍はその要請を受けて、 樺太にいた骨嵬と亦里于を征伐した。「モンゴルの樺太侵攻」と言われる元による軍事遠征である。『元史』巻5、世祖本紀2では次のように伝えている[3]。
「骨嵬(クイ=アイヌ民族)を征した。是より先、吉里迷(ギレミ=ニヴフ)が内附し、其の国の東に骨嵬・亦里于(イリウ)の両の部が有って、歳来(まいとしやってき)て疆(きょうかいせん)を侵すと言った。故で往して之を征した。」
骨嵬・亦里于が同じ方向からきて行動をともにしていることから、骨嵬と亦里于はおもに樺太と蝦夷(北海道)に居たとされる。樺太遠征はその後も3年連続のモンゴル軍による猛攻撃があり、1286年には樺太にいた骨嵬・亦里于は樺太から完全に排除される事態になった。追い出された骨嵬・亦里于は再び北海道から樺太に渡ることは難しくなり、特に亦里于のほうは後の記録にないことから元朝の勢力が衰えるまでしばらくは蝦夷地(北海道)に留まっていたと考えられている[4]。
亦里于起源説
骨嵬(クガイ)とはアイヌ民族の祖先とされているが、亦里于(イリウ)に関しては資料がほとんどなく不明であったため、多くの人が亦里于はどういう民族だったのか臆測をたてている。
ツングース語系説
中国では亦里于はギリミ族に隣接して居住し、漁業、狩猟、トナカイ飼育で生計を立てていた後期のオロチョン族だとしている。アムール川流域や樺太(サハリン)ではエヴェンキ族やウィルタ(オロッコ)族のことをオロチョン(モンゴル語では『イルガン』)と呼んでいたので、後期のオロチョン族とはウィルタ(オロッコ)と思われる[5]。
擦紋文化人説
中村和之はツングース民族ならば遺跡があるはずだが、北海道にはツングースの遺跡が存在しないのでこの亦里于と呼ばれる集団もアイヌ民族につながる人たち、つまり擦文文化人の子孫だとしている[2]。
オホーツク人説
北海道大学の大井晴男教授は北海道オホーツク海岸のモヨロ貝塚遺跡を残した人々をギリヤーク族でもアイヌ族でもない“第3のグループ”として考え、この亦里于(いりう)と同じ民族だったのではないかとしている[6]。
黒水靺鞨後裔説
和田清は、かつて唐の時代の靺鞨国の黒水靺鞨のうちの窟説部と莫曳皆部のツングース系民族の後裔のひとつが亦里于で、アイヌがこれにあたるとしている[7]。
古シベリア語系説(挹婁後裔説)
石田英一郎による説で、挹婁(ユウロウ)も亦里于も虞婁(玉桜)も中国語での音韻がおなじ「Yilou」(ユウロウ)の音訳にあたるとして、挹婁の末裔や親戚関係になる民族だとしている。莫曳皆部に隣り合う民族(黒水靺鞨十六部族のうちの一つ)で莫曳皆部と同じく沿海州にいたとしている[8]。