京丸
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概略
石切川の水源をなす山中にあった。 住民は京都から世を避けて隠れ住んだ、藤原左衛門佐という者の子孫であるといい、全員が藤原姓であったが、これは山村の神人の家に例が多い。最後の住人であった藤原忠教が死去した後は無住集落となっている。 京丸という地名は京人が住むからであるという。 『掛川志』には、遠江奥山郷について「御料の地であつて、三年毎に上番をした、仕丁一人ありこれを京夫丸といふ」とあるので、一説に奥山郷に隣接する京丸は、京夫丸の転訛であるという。 貴人が隠棲した地であり、それは平家の残党であるとか、後醍醐天皇、あるいは宗良親王であるとかいい、応永年間の『浪合記』その他の記述からは、遠江、三河などの山地に伝わる尹良親王と関係があるという。 里おさの屋敷の結構、阿弥陀堂に伝わる親鸞上人筆と称される画像、葬式に僧侶がおらず阿弥陀の画像を導師とすること、などから仙境の地であるとされた。 葬式に阿弥陀の画像を導師とするのは、周智郡内の山村、三河、飛騨などでも行なわれた。
柳里恭『雲萍雑志』には、浜松から「十五里ほど山に入れば、遠江と信濃の国のさかひなる川そひの地に、京丸と呼ぶところあり、その地は他より人の行きかふべきところにもあらず、国の境に、藤の蔓もて長さ五六十間もあらんとおもふほどの桟をかけたり、その地は家わづかに四五軒ありて、農の業はすれども、常の食は米は聊かも食はで、稗にあづきをまじえて粮とす」とある。
西村白烏『煙霞綺談』には、ボタンについて「険阻なる山のはらに大木二本あり、遠く見渡すところ、一本は凡そ四囲、一本は二囲ほどにて、初夏に花を発く、其色白く径尺ばかりに見ゆる、外に類すべきものなく、牡丹なりしといへり、古しへ内裏の跡にて、其時の花壇なりと土俗いひ伝へり」とある。
文献としては、『遠江風土記伝』、『秉穂録』、『煙霞奇談』、『遠山奇談』、『東海道名所図会』、『遠山著聞集』、曲亭馬琴の『山牡丹』など諸書に言及、記述があるが、そのほとんどは伝聞である。
京丸牡丹伝説
沿革
その他
周辺
春野町小俣京丸の東部には小俣集落の跡がある。
南は春野町石切に接する。