京極氏遺跡
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京極氏は、宇多源氏の流れを汲む佐々木氏の一族である。鎌倉時代、承久の乱(1221年)で幕府方として活躍した佐々木信綱の四男・氏信が京極氏の祖である。
『寛政重修諸家譜』によれば、氏信は父信綱の所領であった近江国愛智郡、犬上郡、坂田郡、伊香郡、浅井郡、高嶋郡の6郡の守護となり、京都の京極高辻(現在の京都市下京区寺町通高辻下る京極町付近)にあった邸を譲り受けて京極氏を称したという[1][2]。
鎌倉・室町時代を通じて、近江国守護職は、佐々木氏一族の六角氏がほぼ独占していたが、北近江においては京極氏が広大な所領を有し、軍事指揮権を掌握するなど、強大な権力を有していた。
近江国における京極氏の立場については、近江における勢力を六角氏と二分していたという意味で、京極氏を近江国の「半国守護」「分郡守護」とする見方がある一方、これを認めない立場もあるが、京極氏が近江国の守護職に任じられたのは、ごく限られた時期にすぎない。
婆娑羅大名として知られる京極高氏(佐々木道誉)は、建武5年(1338年)に近江国守護職に任じられ、その130年後の文明元年(1469年)には京極持清が同職に任じられているが、これらはきわめて例外的な事例であり、原則的には六角氏が近江国守護職をほぼ独占していた[3]。
永正2年(1505年)、京極高清は長らく続いていた一族の内紛を収め、それまで京極氏の拠点であった柏原館(米原市清滝)から、伊吹山麓の上平寺へ居館を移した。館の周辺には城下町が築かれ、家臣団の屋敷群もあった。
その後、大永3年(1523年)には、高清の執政であった上坂信光の専横と、高清の跡目争いが原因となって国人衆による一揆が発生し、京極氏館は攻め落とされた。
京極氏城館跡
概観
伊吹山麓の京極氏館が北近江支配の拠点となっていたのは、16世紀初頭の20年足らずの間にすぎなかったが、京極氏の館と庭園、城下町、家臣団屋敷群の遺跡に加え、詰めの城であった上平寺城跡、軍事拠点としての役割が大きかった山寺の弥高寺(やたかじ)跡など、関連遺跡群が良好に保存されている。これらの京極氏遺跡は、戦国大名による地域支配の実態を具体的に知ることのできる遺跡として重要である[6][7]。
館跡(上平寺館)
江戸時代初期に作成された「上平寺城絵図」(米原市教育委員会蔵)に、伊吹山南麓にあった京極氏館と城下町、家臣団屋敷群の様子が描かれており、現存する遺構はこの絵図に一致している。
上平寺集落の北側の奥に城下町とは内堀で仕切られた京極氏の館跡があり、敷地は南北250メートル、東西170メートルである。敷地奥に伊吹神社があり、神社の参道両脇には一族や重臣の屋敷地が配され、「上平寺城絵図」によれば「弾正屋敷」「隠岐屋敷」「蔵屋敷」「厩」などがここにあった。
神社の手前右側が「御屋形」で、敷地は幅35メートル、奥行54メートルである。
その奥には2つの池を中心とした池泉鑑賞式の庭園があった。「上平寺城絵図」には「御屋形様御自愛泉石」とある。庭石は一部抜き取られているが、滝組石、水分(みくまり)石、虎石などと称される景石が残っている。
庭園に面した建物跡からは約30個の礎石が検出されている。礎石の配置から、ここには周囲に縁を設けた主建物と、これに平行して建つ小建物の2棟があったことがわかる[8][7]。
建物付近からは多数の土師(かわらけ)の皿のほか、中国から輸入された青磁や白磁の破片、竿秤(さおばかり)の錘(おもり)などが出土している。この時代の武家庭園は儀式や饗宴の場としての役割を果たしており、出土した土師皿も宴席での酒杯として用いられたもので、庭園に面した建物は饗宴や儀式が行われる会所的なものだったと思われる。
この庭園は戦国時代の武家庭園の遺構のうち、作庭年代の明らかなものとして貴重である[9][7]。
「上平寺城絵図」によれば、内堀の外(南)には「諸子屋敷」(武家屋敷)、「町屋敷」(京極氏直属の商工業者の屋敷)などが建ち並んでいた。
さらに南の外堀の外には「市店民屋」(一般の民家や店)があった。この城下町は、東が藤古川の渓谷、西が尾根と家臣団の屋敷地で区切られ、南は外堀で区切る総構であった。地区の南には北国脇往還が東西に通じていた[10][7]。
家臣団屋敷跡
城下町の南西の高殿と呼ばれる地区に家臣団の屋敷跡があった。「上平寺城絵図」を見ると、この地区には「若宮」「加州」「浅見」「黒田」「多賀」「西野」という6家の名前が記載されている。発掘調査により、建物の礎石、石組溝、石垣、土塁、砂利敷の道跡などが検出されている[11][7]。
上平寺城跡
京極館跡の背後の尾根上に築かれた有事に備えた詰めの城で、最高部の主郭は標高669メートルに位置する。
上平寺城という名称からは、当地に同名の寺があったことが想定されるが、それらしき寺院跡は確認されていない。
城は主郭、二ノ丸、三ノ丸が南北に連なる連郭式で、主郭と二ノ丸の周囲には土塁をめぐらす。三ノ丸と二ノ丸の間には竪堀を掘り、ここに設けられた土橋を通って二ノ丸へ進むと、両側を土塁で囲まれた虎口構えになっている。三ノ丸手前の斜面には、敵の動きを封じるための畝状竪堀群が掘られ、主郭の北側には尾根を断ち切る大堀切があって、背後の護りを固めている[12][13]。
大永3年(1523年)の国人一揆後、京極氏は城から撤退している。
元亀元年(1570年)、浅井長政は美濃の織田信長の侵攻に備えるため、朝倉氏の力を借りて上平寺城を改造した。『信長公記』の同年6月条に、長政が越前衆を呼んで「たけくらべ、かりやす」の両所に要害を構えたとの記事がある。「たけくらべ」は米原市柏原にあった長比城、「かりやす」(苅安)は上平寺城のことである。
現在残る畝状竪堀群や大堀切は京極氏時代のものではなく、長政によって整備されたものである。なお、浅井氏の城番の堀秀村が信長に内通したため、上平城は戦わずして開城し、廃絶した[13]。