京極高清

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時代 室町時代後期 - 戦国時代前期
生誕 寛正元年(1460年
改名 乙童子丸(幼名)、秀綱(初名)、高秀、高清
 
京極高清
時代 室町時代後期 - 戦国時代前期
生誕 寛正元年(1460年
死没 天文7年1月9日1538年2月8日)?
改名 乙童子丸(幼名)、秀綱(初名)、高秀、高清
別名 六郎(通称
戒名 環山寺殿梅叟宗意大居士
墓所 滋賀県米原市徳源院
官位 従五位下中務少輔、飛騨守
幕府 室町幕府飛騨出雲隠岐近江守護
氏族 京極氏
父母 父:京極勝秀、養父:京極政経
兄弟 孫童子丸高清
正室:斎藤妙純の娘
高延高吉高峯景重実高
(※一説によれば高吉は京極材宗の子で養子とされる。)
花押 京極高清の花押
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京極 高清(きょうごく たかきよ)は、室町時代末期から戦国時代初期の武将守護大名戦国大名)。飛騨出雲隠岐近江守護、後に近江半国守護北近江の大名。京極勝秀の子で、京極持清の孫。幼名は乙童子丸

幼少時から家中を二分した京極騒乱を収めたが、自分の2人の息子を巡る別のお家騒動を止められず、京極氏の弱体化と浅井氏の台頭を招いた。

孫童子丸との争い

高清(乙童子丸)は、応仁の乱の最中の応仁2年(1468年)7月に幼くして父勝秀を、文明2年(1470年)8月には祖父持清を病のため相次いで失う。

京極氏は東軍に属しており、近江にて西軍に属する同族の六角氏と戦っていたが、これにより江北への撤退を余儀なくされるとともに、長きにわたる内訌(京極騒乱)が始まることとなった。

祖父持清は嫡孫である孫童子丸(勝秀次男)よりも高清(勝秀長男)を溺愛していたため、両者の間の家督争いとなり、孫童子丸には持清の三男政経と近江守護代多賀高忠(持清の従弟)が付き、いっぽう高清には持清の次男政光と飛騨守護代の多賀清直が付いた。

侍所所司代を勤めた多賀高忠が室町幕府管領細川勝元に働きかけた結果、孫童子丸が家督を継いで近江・飛騨・出雲・隠岐守護職に補任され、その幼少のため京極政経が後見役、さらに六角政堯(東軍)が守護職補佐となった。

これに反発した京極政光・多賀清直は、孫童子丸派を江北から追放しようと9月に西軍に寝返り、六角亀寿丸(六角政頼又は六角高頼)と和睦した。

政経との争い

孫童子丸は翌文明3年(1471年)に夭折し、六角政堯が後任の近江守護となったものの、同年10月に従弟の六角亀寿丸に敗れて自害した。

これを機に高清派の多賀清直が孫童子丸派の多賀高忠へ攻勢をかけたが、幕府(東軍)の後押しを受けた高忠は文明4年(1472年)9月頃までに国人衆を押さえて湖東・湖北を掌握した。

追い詰められた京極政光は、美濃小守護代斎藤妙椿に援助を要請し、9月末に西軍方の政光・高清・多賀清直・多賀宗直・六角亀寿丸・斎藤妙椿ら連合軍が孫童子丸派を破り、京極政経・多賀高忠らを越前へ敗走させた。

高清が家督を継ぎ飛騨・出雲・隠岐守護職となり、近江守護職は六角虎夜叉(政堯養子)が補任された。

高清の後見役だった京極政光は同年病死し、守護代の多賀清直・宗直父子が補佐するが、文明5年(1473年)に幕府より西軍方である高清の飛騨・出雲・隠岐守護職解任と、京極政経への同補任の命が下る。

出雲に落ち延びていた政経・多賀高忠は、文明7年(1475年)9月に出雲の国人衆を率いて上洛し、延暦寺僧徒信濃小笠原家長ら東軍の支援を受けて近江へ進攻、観音寺城下で西軍の六角亀寿丸・京極高清・多賀清直・多賀宗直の連合軍を撃破する。敗れた六角勢は観音寺城へ籠城し、高清勢は江北へ撤退した。

これを受け、幕府は六角虎夜叉の近江守護職を解き、京極政経が近江守護職に補任された。

同年10月に西軍の美濃守護土岐成頼と越前・尾張遠江守護斯波義廉の援軍が近江へ到り、高清・六角亀寿丸はこれらと共に京極政経・多賀高忠らを破って高忠を京都に敗走させたが、応仁の乱終結後もなお一進一退の攻防が続いた。

六角征伐参陣と政経の再起

文明18年(1486年)8月に至り、出雲に下向していた京極政経が上洛し、高清を補佐する多賀宗直がこれに通じて反乱を起こした。

高清は近江甲賀郡へ逃れたが、10月に反撃して宗直を破り、翌長享元年(1487年)5月に美濃から江北へ戻った宗直を討ち果たした。

この頃、江南の六角高頼(亀寿丸?)は権力強化を図るため近江国内の公家・寺社・幕臣の所領を押領し、幕府に反抗する姿勢を明らかにしていた。

長享元年8月、9代将軍足利義尚は幕府の威信回復を目指して自ら六角氏の征伐に乗り出す(長享・延徳の乱)。高清は征伐軍に加わったが、その最中の長享2年(1488年)8月に京極政経・多賀経家らが挙兵した。

高清は近江松尾で政経・経家を破り伊勢梅津へ敗走させたが、翌延徳元年(1489年)に近江国人衆の支援を得た政経に敗れて追放、延徳2年(1490年)に美濃の実力者・斎藤利国(妙純)を頼り、さらに越前敦賀、次いで近江坂本へ逃れる。

政経は10代将軍足利義材(のちの義稙)の怒りを買い失脚、明応元年(1492年)12月に家督(京極氏惣領職)交代を認められる[1]

翌明応2年(1493年)4月、明応の政変によって将軍義材が失脚し、新たに足利義高(初め義遐)が11代将軍に就任する。これを機に、その義高から偏諱(「高」の字)を賜って、初名の秀綱(ひでつな)から高秀(たかひで)(のち高清)と改名したのもこの頃と思われる(義高は文亀2年(1502年)には「義澄」に改名するのでそれまでのこととなる)また、元々京極氏通字でもあった「高」の字を名前に用いるようになったことで、高清以降の当主もそのまま「高」の字を代々名前に用いるようになった。[独自研究?][要出典]

京極政経は八尾城に居たが、この細川氏の政変に協力して勢力を盛り返したため、明応2年10月、高清は持済院や越前の朝倉氏と共に江北に討ち入った。

これに対し、細川政元は足利義材に討たれた山内政綱の子山内就綱を六角惣領に任じた[2]。明応3年(1494年)11月、持是院(斎藤妙純)が山内就綱や延暦寺と戦う六角高頼を支援したが、京極中書事などにより之を中止したという[3]

京極騒乱の終結

明応6年(1497年)斎藤妙純が北近江に侵攻し京極政経を破るが、美濃への帰国中に一揆勢に囲まれ戦死してしまい、高清も没落、美濃海津に寄留する。

明応8年(1499年)、高清が京極氏重臣・上坂家信の助力により江北へと帰還すると、京極政経は出雲の守護代尼子経久を頼り下向した。

永正2年(1505年)、高清は京極政経の子で従弟の京極材宗と和睦し、35年続いた家督争いを終えると上平寺城を居城とし、2年後の永正4年(1507年)に材宗を自害に追い込んで領国統一を成し遂げ、上坂家信の元で北近江の統治を行った。

この時に、高清は京極政経の養子となり、正式に家督を譲り受けたという説もある。

嫡男・高広との戦いと浅井氏の台頭

応仁の乱と家督相続の混乱で、出雲・隠岐・飛騨・北近江の4ヶ国あった京極氏の領地は、高清の治世時には北近江(近江半国)のみとなってしまった。出雲・隠岐は同族で守護代の尼子経久に押領され、飛騨は国司姉小路済継と同族の三木直頼に支配され失ってしまった。

上坂家信の死後は、家信の嫡子・上坂信光を頼りに統治をしていたが、大永3年(1523年)に跡継ぎを巡り、長男高広(高延)を押す浅見貞則浅井亮政ら国人衆と、次男高吉を押す高清と信光らに家中は二分する。結果、京極氏の跡目争いが再び起こり、大永4年(1524年)に高広派の国人衆(浅見貞則・浅井亮政ら)と高吉派の高清・上坂信光らは戦い(国人一揆)へと及び、敗れた高清と信光らは尾張へと逃れる。

同年、盟主・浅見貞則の専横的な領国支配に対して、浅井亮政を旗頭に国人衆が貞則一族を江北から追放する。その後、江北の実権を握った浅井亮政に不満を募らせた高広は、家督相続で対立した高清と和解し、六角定頼の支援を受けて反亮政派の国人衆と共に亮政に対決姿勢を取った。

晩年

京極氏を立てながらも江北支配を固める浅井亮政に敗れた高清は、天文3年(1534年)、高広と共に亮政の居城である小谷城へ招れて饗応を受け和解した。こうして、江北の実質的な支配は下克上により京極氏から浅井氏へ移った。しかし、高吉は浅井氏の後見を否定し、六角定頼を頼った。

和解後、高清・高広父子は、浅井氏の居城である小谷城(京極丸)で暮らしたが、後に高清は上平寺城へ移り天文7年(1538年)に没した。享年79。

高清の没年には諸説あり、『寛政重修諸家譜』に掲載された京極氏系図、『 浅井日記』・『浅井軍記』では永正14年(1517年2月16日に没したとされているが、天文7年9月16日の京極氏家臣の書状に高清を弔うことが書かれているため誤りである。『天文日記』・『東浅井郡志』では1月9日と推定されている。また、高広についても、坂田郡河内(現在の米原市梓河内)に拠点を移したとする説がある[4]

高吉は六角氏の支援を受けて北近江の奪回を目指すも永禄3年(1560年)に敗北し没落したが、後に高吉の子・高次織田信長に取り立てられたことで再興した。

略歴

  • 1460年(寛正元年):守護大名・京極勝秀の子・乙童子丸として誕生。
  • 1471年(文明3年):兄・孫童子丸の死後、京極氏跡目を巡り叔父・京極政経との争いに敗れ越前国敦賀へ逃れる。
  • 1472年(文明4年):六角高頼の庇護の下、家臣・多賀宗直らと共に京極政経・多賀高忠らを破る。
  • 1475年(文明7年):京極政経・多賀高忠・延暦寺の僧兵らに観音寺城へ攻められ敗れるが、土岐成頼・斯波義廉の援軍で勝利。
  • 1486年(文明18年):家臣の多賀宗直が反乱を起こした為、近江甲賀へ逃れる。
  • 1487年(長享元年):北近江へ復帰して多賀宗直を討ち取る。
  • 1488年(長享2年):六角征伐の最中に挙兵した京極政経・多賀経家らを近江松尾の戦いで破る。
  • 1490年(延徳2年):京極政経が北近江に復帰した為、越前敦賀へ逃れる。
  • 1492年(明応元年):将軍・足利義材から家督(京極氏惣領職)を認められて北近江守護となる。
  • 1497年(明応6年):庇護を受けていた斎藤妙純が亡くなり、江北を追われて美濃海津に寄留する。
  • 1499年(明応8年):京極氏重臣・上坂家信の助力により北近江に復帰する。
  • 1505年(永正2年):京極政経の子で従弟の京極材宗と和睦し、家督争いを終え領国統一を成し遂げる。
  • 1523年(大永3年):跡継ぎを巡り長男・高延派の国人衆と、次男・高吉派の高清らに家中は二分する。
  • 1524年(大永4年):高延派の浅見貞則ら国人衆と戦いに敗れ、上坂信光らと尾張へと逃れる。
  • 1534年(天文3年):高延と共に浅井亮政の居城である小谷城へ招れて和解する。
  • 1538年(天文7年):晩年を過ごした上平寺城にて没する(享年79)。

脚注

参考資料

関連項目

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