今井清
日本の陸軍軍人 (1882-1938)
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経歴
愛知県出身[1][2][3]。今井惟清の三男として生まれる[1]。名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業[1][2][3]。翌年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第6連隊付となる[1]。1914年11月、陸軍大学校(26期)を優等で卒業した[1][2][3]。
歩兵第6連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、スウェーデン駐在、デンマーク駐在、陸軍技術本部付(欧州出張)、陸大教官、歩兵第80連隊長、参謀本部演習課長、同作戦課長などを経て、1930年8月、陸軍少将となり歩兵第30旅団長に就任[1][2][3]。陸大教官、陸大幹事、参謀本部付などを歴任し、1934年8月、陸軍中将となった[1][2][3]。
参謀本部第1部長を経て、陸軍省人事局長に在任中の1935年(昭和10年)8月12日、相沢三郎中佐に永田鉄山軍務局長が斬殺される相沢事件が発生。翌8月13日付けで後任の軍務局長に就任した[4][1][2]。 1937年(昭和12年)、宮内省御用掛に就任。同年4月から6月にかけて、昭和天皇にフランス革命、ナポレオン戦史などフランスの近代史を進講する[5]。 その後は陸軍兵器本廠付、第4師団長などを経て、日中戦争勃発時には参謀次長であった[1][2][3]。兼陸大校長、参謀本部付を経て、1938年1月、病により死去した[1][2][3]。死去に際して祭資を下賜されたほか、同年1月24日の葬送には勅使が邸宅を訪問、幣帛の下賜を受けた[6]。