今福友清
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略歴
今福氏は甲斐源氏・奈古氏を遠祖とする一族[1]。『甲陽軍鑑』によれば、長閑斎は70騎を有していたという[1]。
武田氏は天文年間に信濃侵攻を本格化させるが、『高白斎記』によれば天文22年(1553年)の信濃国筑摩郡侵攻において「今福石見守」が刈屋原城(現・長野県松本市)の城代となり、知行地を巡り信濃国衆の海野下野守と争論が発生したという[1]。この記事が初見史料とされる[1]。また、『高白斎記』によれば、信濃深志城主・馬場信房、平瀬城主・原虎胤が甲府参府中に、長閑斎は横田康景と共に在番と仁科衆への監視を務めている[1]。
永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは嫡男・今福虎孝が従軍しているため、この頃に長閑斎は隠居していると考えられている[1]。
永禄11年(1568年)12月6日、武田氏は駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。『甲陽軍鑑』「武田法性院信玄公御代惣人数之事」に拠れば、長閑斎は駿河・久能城(現・静岡県静岡市)の城主を務めたという[2]。久能城は駿河侵攻において後北条氏が富士郡・駿東郡に侵攻した際に、対後北条氏の拠点城郭として久能山に築城され、駿河侵攻時には武田一族の板垣信安(左京亮)が城主となっている[2]。武田氏は元亀2年(1571年)には駿河を領国化し後北条氏との甲相同盟も回復しており、『甲陽軍鑑』「惣人数之事」は元亀・天正年間の記事と推定されているため、長閑斎は板垣の後任として久能城主になったと考えられている[2]。久能城は富士川以西・大井川以東の地域における支配拠点で、長閑斎は地域支配を担う「駿東郡司」(郡代)の権限を持っていたと考えられている。
天正5年(1577年)3月6日には鉄山宗鈍に自身の逆修供養(生前供養)を依頼している[1]。天正9年(1581年)、病没。法名は「月岩紹心庵主」[1]。