仙石久忠

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仙石 久忠(せんごく ひさただ、生年未詳 - 慶長7年8月9日1602年9月24日[1])は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将信濃小諸藩仙石秀久の長男。母は本陽院。幼名は菊太郎、伊勢松、宇兵衛[1]。別名・関都(菊都)。子に久治

天正年間の初め頃に失明したため後嗣からはずされ、京に住して関都(菊都)と名乗り、文禄元年(1592年)に総別当、検校となった[1]佐久郡耳取組にて、合力米3,050貫文の地を領した。京にて病にて没して、佐久郡の大照庵に葬られたが、のちに上田芳泉寺に改葬された。

子孫は、筆頭家老を務めた。久治、政治と続き、政治の子の靭負政時は同じく家老職を勤めていたが、嗣子のいなかった藩主仙石政明の養子となり仙石政房と改名し、宗家を継いで出石藩第2代藩主となった。

脚注

関連項目

参考文献

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