仙石久忠 From Wikipedia, the free encyclopedia 仙石 久忠(せんごく ひさただ、生年未詳 - 慶長7年8月9日(1602年9月24日)[1])は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。信濃小諸藩主仙石秀久の長男。母は本陽院。幼名は菊太郎、伊勢松、宇兵衛[1]。別名・関都(菊都)。子に久治。 天正年間の初め頃に失明したため後嗣からはずされ、京に住して関都(菊都)と名乗り、文禄元年(1592年)に総別当、検校となった[1]。佐久郡耳取組にて、合力米3,050貫文の地を領した。京にて病にて没して、佐久郡の大照庵に葬られたが、のちに上田の芳泉寺に改葬された。 子孫は、筆頭家老を務めた。久治、政治と続き、政治の子の靭負政時は同じく家老職を勤めていたが、嗣子のいなかった藩主仙石政明の養子となり仙石政房と改名し、宗家を継いで出石藩第2代藩主となった。 脚注 1 2 3 宿南保『仙石騒動』比叡書房、1976年、p.2-3。 関連項目 仙石氏 参考文献 「寛政重修諸家譜 巻第306」 Related Articles