伏島近蔵
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天保8年(1837年)、上野国新田郡藪塚村(現・群馬県太田市)に生まれる[3][4]。
慶応元年(1865年)に、横浜に出て商売を始めた[3][4][5]。南京豆や蚕卵紙の取引によって財をなす[4]。特にウォルシュ・ホール商会に重用された[2]。
明治5年(1872年)、私財を投じ、廃絶していた郷里の岡登用水の再興を行う[3][4][6]。この功績により、1876年(明治9年)の明治天皇東北巡幸の際には賞品の下賜を受けた[3][6]。また藪塚本町小学校建設のための資金の寄付や[3][4][5]、藪塚温泉の発展にも力を尽くした[3]。
1877年(明治10年)の西南戦争に際しては、羅紗の取引で巨利を得たという[3][4][5]。1878年(明治11年)には第七十四国立銀行(現・横浜銀行)の設立に参加し、初代頭取に就任した[4][2][5]。
1880年(明治13年)から翌年にかけて、蚕卵紙11万枚を直接ヨーロッパに売り込むことを計画し、イタリアへ渡航した[4][5]。しかしこの事業に関しては結果的に大きな負債を生むこととなった[7]。この渡航で近蔵は『伊太利国行日記』という旅行記を書き残している[5]。帰国後彼は悪影響を考え、第七十四国立銀行頭取の職を同郷高崎出身の茂木惣兵衛に譲り商業活動に専念したが、折に触れ局外協力は行った。
その後横浜における良質な飲料水の不足から新たな事業を思い立ち、太田初音町山に横穴を掘削し、株式会社揺光社を設立して清水(飲料水)販売を行った[7]。さらに揺光社の株式を売却して野毛山一帯の地所を買占め、1885年(明治18年)横浜市による野毛山貯水池設置にあたり売却したことで莫大な利益を得た[7]。
また外国における港湾都市の実見により、港都横浜の発展には陸上施設の完備が肝要であることを痛感した彼は、その後積極的にその方面での活動を行う。特に現在の大通り公園にあった新吉田川や新富士見川の開削や、隧道や橋等の整備のために私財を拠出した[3][5]。
1899年(明治32年)に横浜市会議員、さらに同参事会員となる[5]。さらに横浜市ガス局長にも就任した[4][5]。
1900年(明治33年)、勢多郡横野村大字樽から利根川を取水し、赤城山南麓を横断し新田郡笠懸村まで導水、藪塚本町方面まで利用する用水計画を立て、測量調査費用3千円を投じた。この計画は実現しなかったが、赤城山南麓を横断する用水計画は後の群馬用水・大正用水の先鞭といえる[8]。
彼の事業は順調であったが、1901年(明治34年)北海道開拓を決意し、同年官林の払い下げを受け、その実地検分のため北海道に渡ったが、札幌にて病となり、その後稚内まで達するも現地で病死した[3][5]。享年64。墓地は横浜の根岸墓地にある。
頌徳碑と銅像
田辺屋の屋号
伏島近蔵の店は田辺屋として知られていたが、屋号の由来は定かではなく彼も由来を語ることはなかった、一説には恩人の苗字と言われている。
板垣退助に心酔
脚注
参考文献
- 丸山知良「伏島近蔵」『海を渡った幕末明治の上州人』みやま文庫、1987年3月30日。doi:10.11501/13258320。(
要登録)
- 横浜開港資料館報 「開港のひろば」(Number95) 2007年(平成19年)1月31日(水)発行



