佐々木忠戬
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天保14年(1843年)、東京の士族に生まれる[1]。 明治5年(1872年)5月、小川津・大石篤実らとともに陸軍大尉に任ぜられ、明治7年(1874年)頃に陸軍少佐へ昇進し、従六位に叙せられた[1]。 明治8年(1875年)頃には砲兵第四大隊長となる[1]。 明治9年(1876年)、大阪鎮台司令官三好重臣が佐々木と、揖斐章・厚東武直・井出正章・高嶋信茂・池田安正・笠貞継らとともに「博交社」という学舎を設けた。
明治10年(1877年)の西南戦争にも従軍し、その際の逸話が亀岡泰辰の記録に見られる。亀岡によれば、戦闘中の混乱で誤って退避した際、「障子抜けは少佐佐々木忠戬、池中に陥りしは揖斐大佐なりき」と記され、戦場での混乱を風刺的に描写し、失笑している[2][3]。
明治11年(1878年)1月31日、勲四等に叙され、明治14年(1881年)頃には砲兵第一方面本署副提理、同年砲兵会議員を兼務[1]。 明治17年(1884年)7月31日、死去。享年41。戒名は「浄道院殿釋忠戬居士」[1]。