佐藤仁 (政治家)
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| 佐藤 仁 さとう じん | |
|---|---|
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2017年 | |
| 生年月日 | 1951年12月24日(74歳) |
| 出生地 |
(現・南三陸町) |
| 出身校 | 仙台市立仙台商業高等学校 |
| 前職 | 南三陸町長 |
| 所属政党 | 無所属 |
| 当選回数 | 5回 |
| 在任期間 | 2005年11月7日 - 2025年11月5日[1] |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 2002年 - 2005年9月30日 |
佐藤 仁(さとう じん、1951年〈昭和26年〉12月24日[2] - )は、日本の政治家。
宮城県本吉郡志津川町議会議員、志津川町長(第6代)、南三陸町長(初・第2・3・4・5代)を歴任した。
志津川町長として歌津町との合併を取りまとめ、新設された南三陸町でも町長に就任した。東日本大震災では、南三陸町防災対策庁舎にて公務に従事していたところ庁舎ごと津波に飲み込まれたが、生還した。
生い立ち
志津川町出身。小学校3年生の時にチリ地震(1960年5月24日)の津波で家が全壊する被害に遭う。その後、仙台市立仙台商業高等学校に進学[3]。高校時代は野球部に所属し、正遊撃手として同級生の八重樫幸雄らと第51回全国高等学校野球選手権大会に出場し、ベスト8入りを果たした[3][4]。
政治家として
志津川町議会議員選挙に立候補し当選[3]、政治の道に入った。さらに、志津川町長選挙に立候補し、当選した[3]。志津川町と同じく本吉郡に属する歌津町との合併を推進し、新設合併を実現した[3]。
2005年(平成17年)、志津川町と歌津町の合併により成立した南三陸町の町長選挙に立候補し、当選を果たした[3]。さらに、2009年(平成21年)の町長選挙にも立候補し当選、引き続き町政を担うことになった[3]。合併時にまとめられた「新町建設計画」を着実に実行し、掲げた施策の8割を就任から5年で達成した[3]。町の主要産業として観光業を位置づけ、その振興発展を図った。
2011年(平成23年)3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生した際、南三陸町防災対策庁舎に詰め、津波の様子を確認するため屋上に上がったところ、そのまま津波に罹災した[5]。同庁舎に詰めていた職員約30名もともに罹災し、度重なる津波によって庁舎は骨組みだけとなった[6][7][8][9]。屋上のアンテナにしがみつくなどして波に耐えた佐藤ら約10名は生還したものの、庁舎に詰めていた他の職員は流された[6][7][8][9]。佐藤らは一晩を屋上で過ごし、同じく取り残された副町長らと「流された職員の分まで頑張らなくちゃいけない」[10]と語り合った。翌朝、津波の水が引いたため、地上に下りて避難所に向かった。「拾った命。町民のために全力を尽くす」と述べ[7]、ベイサイドアリーナに災害対策本部を設置し、同年3月13日から公務に復帰した[7]。2012年3月6日には、佐藤が高台へ避難させず、庁舎にとどまらせたのが原因で町職員ら41人が犠牲になった(※同庁舎における最終的な犠牲者数は43人)として、町職員の2遺族から業務上過失致死容疑で宮城県警南三陸署に告訴状が提出された[11]が、2015年(平成27年)8月31日、仙台地検は「罪の成立を認定するに足りる証拠はなかった」として佐藤を不起訴処分とした。
2013年(平成25年)3度目の町長当選。2017年(平成29年)町長選に立候補し、4度目の当選。2021年(令和3年)町長選に立候補し、5度目の当選。
2025年9月11日、「自分の使命は果たした」として、同年10月の町長選に立候補せず任期限りで退任することを表明した[12]。町長退任後、南三陸311メモリアルの特別顧問に就任した[13]。
年譜
- 1951年(昭和26年)- 誕生。
- 1960年(昭和35年)- チリ地震津波で被災。
- 1969年(昭和44年)- 第51回全国高等学校野球選手権大会に出場。
- 2002年(平成14年)- 志津川町長(昭和の合併以降・第6代)。
- 2005年(平成17年)- 南三陸町長(1期目)。
- 2009年(平成21年)- 南三陸町長(2期目)。
- 2011年(平成23年)- 東日本大震災発生、防災対策庁舎にて被災。
- 2013年(平成25年)- 南三陸町長(3期目)。
- 2017年(平成29年)- 南三陸町長(4期目)。
- 2021年(令和3年)- 南三陸町長(5期目)。
- 2025年(令和7年)- 南三陸町長退任、南三陸311メモリアル特別顧問就任。
政策
- 観光業の振興
- 南三陸町の主要産業として、水産業と観光業を結びつけた旅行業の振興を図った。南三陸町の新設を期に「まったくない知名度を上げるにはどうすべきか」[3]との問題意識から、リアス式海岸などの景観や新鮮な魚介類などを生かした着地型観光を推進しようと考えた[3]。
- 2009年には、南三陸町観光協会の旅行業登録を行った[3]。また、中学生らに農業や漁業を体験させる旅行プランを提案し、1年余りで1,600名近くを町に招いた[3]。町民もこれに呼応し、商店街や産業団体による催事や、飲食店組合によるご当地グルメ「南三陸キラキラ丼」の展開などの動きが広がった[3]。将来的には、日本国外からの観光客誘致も視野に入れていた[3]。
- デスティネーションキャンペーン
- 2008年に開催された仙台・宮城デスティネーションキャンペーンにおいては、同キャンペーンの南三陸町推進協議会を組織し、その会長に就任するなど[14]、積極的に取り組んだ。町内の商店街などから上記のような観光振興の動きが出てきた点について、デスティネーションキャンペーンをきっかけに「おもてなしの心」が町民に根付いたためと佐藤は分析している[3]。
- フィルムコミッション
- 冨永昌敬監督の映画『パンドラの匣』が南三陸町で撮影を行った際には、町民らとともに協力した。「宮城県上演を成功させる会」を組織し、宮城県知事の村井嘉浩や登米市長の布施孝尚らとともに名を連ねた[15]。
- 教育
- 町内にある宮城県志津川高等学校(現宮城県南三陸高等学校)が震災の影響で生徒数を大きく減らしたことに危機感を抱き、生徒の全国募集を宮城県教育委員会に提案して、地域みらい留学制度を活用した全国募集の導入につなげた。入試では佐藤自ら面接官を担当し、また入学した留学生の身元保証人も務めた[16]。
