佐藤博俊
From Wikipedia, the free encyclopedia
宮城県仙台市出身。東北学院中学校・高等学校、中央大学商学部卒業。
高校時代にレスリングを始め、中央大学進学後もレスリング部に所属。1964年の全日本学生選手権を制覇し、東京オリンピックの代表候補として期待されたが、最終選考で敗れ出場を逃した。この時の「あと一歩で夢を逃した」悔しさが、その後の人生における「不撓不屈の精神」の原動力になったと語っている[1]。
大学卒業後、東京の建設関連会社での勤務を経て、1971年(昭和46年)に株式会社橋本店に入社。1994年(平成6年)に第8代代表取締役社長に就任した。創業家以外では初の生え抜き社長として、老舗ゼネコンの近代化を推進した[2]。2023年(令和5年)に取締役を退任した。
活動・功績
実業家・公職としての活動
社長就任後、バブル崩壊後の厳しい経済状況下で経営の多角化と近代化を推進。2008年(平成20年)に会長に就任し、同時に宮城県建設業協会の会長に就任した。
東日本大震災における「地球の医者」としての活動
2011年(平成23年)の東日本大震災発生時には、自社も被災する中で、県内建設業者を統括する協会長として陣頭指揮を執った。発災直後から「道路の啓開」を最優先事項とし、ガレキ撤去やインフラ復旧を迅速に実施した[3]。
特に「地元密着」と「広域連携」の両立を掲げ、復興事業において地元企業が排除されないよう、国や行政に対して「地元企業優先の発注」を強く働きかけた。これは単なる利益追求ではなく、地域の雇用と技能維持こそが真の復興に繋がるという信念に基づいたものであった。佐藤は地域建設業を「地域の安全・安心を守る『地域の町医者』」と定義し、災害復旧の要を担う業界の社会的地位向上と、担い手である若手の育成(建設DXや処遇改善)を強く推進した[4]。
レスリングにおける活動
大学時代は軽量級の有力選手として活躍し、1963年東日本学生新人選手権フェザー級1位、1964年全日本学生選手権ライト級1位を獲得した。
引退後も宮城県レスリング協会会長として競技普及に尽力したほか、宮城県体育協会(現・宮城県スポーツ協会)副会長として、2001年の新世紀・みやぎ国体の運営にも携わり、閉会宣言を担当した。同大会のメイン会場となった宮城スタジアムの建設には橋本店を含む共同企業体(JV)が携わっており、佐藤は同施設を「(情熱を注いで作った)息子」と例えている[5]。
栄誉
家族
- 息子はレーシングドライバーの佐藤晋也。
略歴
- 1956年(昭和31年) - 東北学院中学校に入学。
- 1959年(昭和34年) - 東北学院高等学校に進学。
- 1962年(昭和37年) - 中央大学に入学。
- 1971年(昭和46年) - 株式会社橋本店に入社。
- 1986年(昭和61年) - 橋本店の取締役に就任。
- 1994年(平成6年) - 株式会社橋本店の第8代代表取締役社長に就任。
- 1996年(平成8年) - 仙台建設業協会の副会長に就任。
- 1998年(平成10年) - 宮城県建設業協会の副会長に就任。
- 2007年(平成19年) - 黄綬褒章を受賞。
- 2008年(平成20年) - 宮城県建設業協会の会長、橋本店の代表取締役会長に就任。
- 2014年(平成26年) - 旭日小綬章を受賞。
- 2023年(令和5年) - 橋本店の取締役を退任。