佐藤藤七は文化4年(1807年)に現在の藤岡市本動堂に生まれ、のちに権田村名主・佐藤勘兵衛家の婿養子となり、家督を継いだ。勘兵衛家は代々名主を務め、家業は酒造であった。
藤七は学問、とくに漢学に秀で、権田村で寺子屋を開き、文人・塚越停春などの逸材を育てたことで知られる。
小栗忠順に才能を見込まれて江戸で忠順に仕え、万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約批准書交換のために遣米使節を派遣したが、藤七は農民身分としては異例の随行許可を得て、小栗忠順に随従し世界一周を経験した最初の日本農民となった。
この航海の様子は本人の記録『航海日記』に詳しく、出発から帰朝までの経路・所見・スケッチが記されている。同書は坂上村高橋家が所蔵していた。
『倉渕村誌』では藤七の日記は「この日記のことは前から知られていたが、藤七のものとは信じ難いという人もあって公にされなかった」と述べるが、昭和43年に伊勢崎の下城家から当時のアメリカ新聞、藤七の写真、権田村古文書が多数発見され、史料価値が確認された。
これは、佐藤と繋がりのあった小栗家家臣・中島三左衛門の子孫と下城家が縁戚であったため流伝したと考えられている。
晩年は権田村で名主として過ごし、明治5年(1872年)6月27日に死去、66歳であった。墓は倉渕町権田191付近の十王堂墓地にあり、戒名は「瑞雲院観児良光居士」。墓石の右面には「明治五年六月廿七日 俗名佐藤藤七信宥」と刻まれている。
死後は長男・佐藤勘十郎が家を継いだが、明治18年に破産して権田村を離れた。