塚越芳太郎
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幕末の元治元年(1864年)、上野国碓氷郡烏淵村(現群馬県高崎市)の農家に生まれる[1]。初め佐藤勘兵衛の寺子屋で学んだ[3]。 1878年(明治11年)、郷里の倉渕村(現高崎市の一部)で小学校の教員となる(1887年(明治20年)に校長(主席訓導)[4])。この頃、専修学校(現・専修大学)の通信教育を受け、法律や経済を学ぶ[5][6]。
また、地元の青年会運動に参加し、やがて県会議長の湯浅治郎らとともに廃娼運動を推進する[7]。湯浅は徳富蘇峰の姉・初子と再婚しており、ここから塚越と蘇峰の縁が生まれたと考えられている[8]。群馬県では1888年(明治21年)までに貸座敷・娼妓を廃止することが決まっていたが、実施を前にして貸座敷業者側が反対運動を起こし、県知事が延期令を出していた。以後、この問題を巡って紛糾が続いた。
1889年(明治22年)、廃娼運動で官憲の厳しい干渉を受けたことにより教員をやめて上京[9]。初めは政治家を目指していたが、選挙の際に候補者が戸別訪問をして頭を下げている様子を見て失望する。徳富蘇峰が始めた民友社に入り、『国民之友』の記者となる。同誌の「史論」欄を山路愛山とともに担当。1892年(明治25年)、民友社発行の『家庭雑誌』を主宰。この間、史論を多く執筆し、正規の歴史学は修めていないものの、在野の史論家として知られるようになった。民友社を離れた後、政友会系の新聞『人民』を主宰(1900年(明治33年))。
1906年(明治39年)、東京市長・尾崎行雄に懇望され[10][11]、東京市助役・中野寅次郎の推薦で『東京市史稿』編纂嘱託となる。塚越と同年生まれの中野は、新聞『人民』で政治記事を担当しており、塚越をよく知っていた。東京市は塚越を正規採用する予定だったが、「俗吏の肩書きがほしくない」と拒まれ、嘱託として採用した。給与は月50円と高額であった[12]。
同年(1906年)、東京勧業博覧会(1907年(明治40年)開催)で一般に配布するために、東京に関する今昔の歴史と地理を調査・編集した『東京案内』上下巻を執筆[13][14]。 以後は亡くなるまで『東京市史稿』の編纂に従事する。
1933年(昭和8年)10月、東京市は市史編纂事業の発展に功績があったとして塚越を表彰。同年の『東京市公報』では、想像も及ばない苦心を重ねてその史実を厳格精密に調査究明し、本市として極めて貴重で権威ある文献集成を達成しつつあるだけでなく、その真価は広く学会の認めるところとなったとして、編纂事業に費やした労苦に対する謝意を表わし、市史稿が基本文献として内外から高い評価を受けていると位置づけている[15]。
1948年(昭和23年)2月には、入市以来43年の長きにわたり市史稿及び市史の編纂に従事してきた功績に対し、同年の第1回都議会臨時会において、弔辞及び香華料贈呈の件が全会一致で可決されている[16]。